From Nowhere To Somewhere ?

ビートルズの曲名から名を採った無定見、無我、無帰属の男が、どこかに辿りつけるのかという疑問文(題名、字面通り)

フェミニズムはだれのもの、という問いかけに対する現時点での僕の考え

(1) ちょっと大上段から、憲法上の三権分立における控除説というお話から導入部分として入らせてもらいます。あくまでも、法律を学んできた人間が、(政治)哲学としてのフェミニズムを我田引水するという論法なので、その始まりには一応、法的なアナロジーくらいは用意をしておきたいので。

 この説は、行政とはなにか?という問に対するひとつの考え方です。「ひとつの」といっても、既に憲法学や行政法学上で大前提にされている通説的見解で、ルーツとしては西欧の絶対王政にまで遡る思考形態です。

 要するに、国王というのが、なぜ過去において巨大なパワーを用いて専横を働けたかというと、彼(もしくは彼女)が神から選ばれて君主としての権利を授けたからだ(王権神授説)というロジックが有名ですけども、その後の展開を差して、控除説というのです。文字通り引き算するのですが、行政権というのは絶対王権を起点とし、そこから立法権司法権を国民の側へ引き算するのだ、その残余の広範囲に属するものは(広すぎる観もありますが)すべからく行政だと扱うほうが便宜だからそう扱うのです(実際にそうして論じられています)。

(2) フェミニズムとどう関連するのか?そう訝しく思われる方もおられるかもしれません。ちょっと僕自身も微妙な試みだなとは思います。というのは、誰もこういう事を掛けあわせてみることをしてないと思われるので。実験的という意味で、物珍しいものとして眺めてもらうくらいでちょうどいいかもしれません。

 フェミニズムというのは、フェミニン(女性的である)という形容詞をイズム(主義主張)に変形させた造語ですよね。

 では、どういうイズムなのかというと、起源的には(現在は多岐にわたるので元の意味にとどめます)、歴史が形成してきた男女の関係が主従の関係にあり、パラレルに云うと王と従者の関係にあるために、そこからどうやったら女性のための権利を奪還できるかという上記の控除説的な発想があったと思われるわけです。

 例えば異説があり得るとは思いますが、女性のスカート。女性らしいものの典型の一つですけれども、あれは農作業等をするときにはかえって邪魔だろうと思う人は多数いるはずです。西欧のある時代の風俗的には、都会的な女性は足首を見せるとはしたないというルールがあったりしたそうで、とにかくも全身を覆うことに執着したりしていたようです。文化は違えど、日本の和装もそうで、着物も正式であればあるほど重厚で、ほぼ全身が隠れるのが望ましい。

 ところがフェミニズムによる糾弾では、スカートは分娩のしやすさだとか、男が欲情して性的に干渉してくる点だとかを、機能的に織り込んだ文化的所産だということになってきます。言い換えると、「鑑賞する側の男目線で創られて女に押し付けられた文化」であり、それは女が無教養だからそれがいいものと思わされたということになる。

 そこで、女性が立ち向かうには、女性自身が賢くなり啓蒙しあわなくてはならない。「女の敵は女である」というとき、男に対して従属的であることを選択的に選んだ女が、そうでない女を女どうしで貶し合ってしまうことを指していると思われるわけです。しかし、実際には、そういう対立を惹起させてしまう真の敵は、その対立の「外」にいる男ではないですか?

 という形式の構造を持った論理がフェミニズム原型です(クドイが。変型は多すぎるので割愛)。

(3) 二極化した例だけを取り上げますと、リベラル・フェミニズムかラディカル・フェミニズムかという極があるようです。

 前者は、直訳すると自由主義的なフェミニズムなのですが、では何でもかんでも自由だというかというと違います。一応、リベラリズムの範疇で自由だというので、法制度化された自由を基本的には意識するようです。例えば、オーストラリアかオーストリアか一文字違いで思い違いだと恐縮なのですが、売春を法的に肯定する代わり、きちんと彼女らに税金を払ってもらうように財政破綻の回避策になっている例があります。トレードオフになっている。でも、偏見は減退するでしょうね。ちなみに、上記した何でもかんでも自由という類型はリバタリアニズム(自由至上主義)に分類されると思うのです。しかし、リバタリアンフェミニズムという類型は主たる学者からはどうも主張されていないようです。

 他方、後者のラディカル・フェミニズムは急進的・進歩的なフェミニズムということで、じゃあリバタリアニズムとどう違うのかと思われるかもしれません。字面は似ているのですが、根っこが違います。女性の自由を、原理主義的に捉え(もともとのフェミニズムの原理に則り男性からの開放重視で捉え)、売春は女性の尊厳の売渡しだと考えます。女性全体のレベルを下げてしまう営み。なので、進歩的とは、撲滅をする方向で進歩的と自称しているわけですね。*1

(4) 結論先行ですが。現時点での僕の考えは、人格権とか自己決定権というのを重視するべきだという大方の見解をちょっと変形したものになっています。リベラル派よりは間口が広いのだけど、リバタリアンのように何でもありとは思っていないし、ラディカル派のように何でも規制しろとは思っていない。結局、後述するような、必要性や効用を考えるとリベラルとリバタリアンの中間ということになりそうです。*2

(5) ご存知かわかりませんが、日本では自殺は適法・合法です。というのは、人を殺害するのは、法的には、相手の肉体の自己所有権(ちょっと民法的な把握ですが)を自己の意思決定で処分する機会を奪って勝手に処分する、という側面を持っています。他方で、自己所有の肉体を自由意思に基づく自己決定に基づき処分することは適法ということになるのです(あくまでも西洋法の論理ですが…日本は継受国なので已む無い)。これは一個人の生命全体を処分する話です。

 では、性器という臓器の一部を、殺人はもちろん臓器移植ほども強力な侵害態様でなく、単に一時的使用に供する行為(真面目に語るほど失笑を買うのですが)は自己決定権行使ではないのか?性的自由に関する話に我田引水してみます。

 上記の問に、現存するロジックは正面から答えられないのです(超絶のレトリシャンだったりアクロバティックな書き手は除き)。公法上・刑法上(巻き添えで民法上も?)の通説を用いる限り、売春も肯定されそうです。なぜって、自殺は適法だと憲法の教科書には婉曲に*3、刑法の教科書には明確に書いてありますし。

 もっとも、性病蔓延だとか、性犯罪の模倣犯が現れては困るので、衛生関連とか社会防衛目的での間接的な取締法規や、性教育など別の矯正ルートはあります。*4刑法上の規定がある猥褻犯・強姦犯なども、当然ながら事後の刑罰です。

 そういう表現(創作)はあるけれども、それは表現の自由で保障されていたりします。事前抑制は出来る限り避けて、「それを観た人が事後、実行にうつすかどうか」はその人の資質の問題、これもまた自己決定権の問題となってきます。*5

 一方で、不特定多数の男性を相手とする売春それ自体とは異なるのですが(性病などの蔓延のおそれはある)、映像作品としてのアダルト動画などに出演している人々(プロ同士で脚本をもとにして活動する人々)がいます。メジャーだと(アングラだと犯罪的かもしれませんが)、企業体として活動しているので衛生管理や届出はしているようです*6要するに適正手続は踏んでいる

 よく言われるような「悪い手本を流通させるな」という論法も、上記の話で言うと「脚本があることは分かっているんだから、実践しようとするやつ(鑑賞後に犯罪をする『自己決定』をしちゃう人ということです)、脳内汚染されるやつが悪い」という反論はありうるわけです。「作り物だと分かってなら観て良いよ」ということでレーティングシステムがあるわけですし…。Rいくつってやつですね。クリエイターじゃなく、ユーザーの自己責任問題。*7

 おまけのようにいうのですが、なにげに慣れが生じたりして、ガス抜きにもなり、性犯罪はむしろ抑制されている可能性もあるわけです(少数は悪質化しているのは認めつつも)。そういう映像がなかった時代のほうが、性犯罪は多かったおそれもある。これは、『反社会学講座*8で黒い笑いと共に統計が紹介されてさえいます。

(6) 女性の権利開放のうちで、一般的には労働上の対等化にフォーカスが行くのですが、それは徐々に進んでいっていますし、有能な女性が切り拓いていくでしょう。ここで取り上げている性的自由っていうのは、キャリア・ウーマンじゃなくても、女性であれば(自己決定の程度は違えど)直面することなので、(より一般的に、きちんと)フェミニズムの発想が取り込まれた上で女性たちによって議論されないといけないはずのことです。

 現実には、フェミニズムの本義は横において、「女性としてどうモテるか=男性の視線を惹くか」などの男性ウケの雑誌が優勢であり、上記したような言説など、黙殺されてますが…。