From Nowhere To Somewhere ?

ビートルズの曲名から名を採った無定見、無我、無帰属の男が、どこかに辿りつけるのかという疑問文(題名、字面通り)

女性天皇の是非について(の小ネタ)

現時点で、安倍政権成立時に話題沸騰した改憲の論議は鳴りを潜め、経済政策の是非に焦点は収束され続けています。

 

きっと自民党は都議選に続き参院選で大勝して、ねじれ国会の構造是正を果たした上で、思い出したかのように96条改正の発議を出すに違いない、などと邪推をしております。

 

いや、僕は小賢しくも、総論賛成各論反対の論調でして。

 

つまりよくある、改憲は賛成なのだけど、自民党の案は嫌だ(議論を尽くした上でならやむないが、現行案は困る)というやつで。せっかくGHQからの押し付け憲法論を貫いても、熟議制民主主義(口語)が機能せず、明治維新期の如き、下からの革命なき上からの革命の再来、自民党による押し付け憲法論が巻き起こるだけって感じがします。

 

ところで、人権論の大家でおられる芦部教授の存在を「知らない」と国会で明確に答弁した安倍総理ですが、象徴天皇制についてはやたら詳しい学説的体系をお持ちだったりするのでしょうか?いや、僕がいうわけじゃないが(逃げ?)極右政権の呼び名も海外ではあるようですから…。

 

改憲するとなれば、象徴天皇制の(慎重な)取扱いについても、俎上にいずれは上るでしょう。その土俵で、一国民として意見表明をすることは、憲法上(21条1項で)保障されています(よね?臣民じゃないので)。

 

皇位継承者は男系じゃないと駄目だ」とおっしゃる方々が俗世における男尊女卑思想の持ち主であるかどうかはリトマス試験紙があるわけでなし、こういうバーチャルな(しかも傍観者的な)立ち位置から断じることはできません。

 

が、少なくとも消極的な形であれ、「過去に存在した女性天皇は全て中継ぎ的存在だった」という主張に対して、抗弁を提出しておくのも良いのかなと思って。新書というにはちと古いけど、興味深い本を紹介させてください。

 

↓ 下記です。

女帝の古代史 (講談社現代新書)

女帝の古代史 (講談社現代新書)

 

一番著名な部類の女性天皇は誰か?と問うた場合に、やっぱり、廐戸皇子=聖徳太子が摂政を務めた推古天皇*1辺りが、想起しやすいだろうなと思うのです。お札にもなった人*2が支えた女帝ですから…。

 

なので、本書の記述から、推古天皇(女王)についての、右寄りの人には馴染み深い、「天皇大権」の存否を検証するくだりを抜粋、紹介することにします。

 

こうすることで、「女性天皇は、すべからく男性天皇に劣後したり、中継ぎ投手陣のような扱いを受けていたものではない」という証明の(といってもネットの住民の皆さんの)資料になるのではないかと、かすかに期待しているところです。

 

明治憲法大日本帝国憲法のもとで、臣民教育を施された人たちがご存命であるうちに、過去の反省や意見が活かされる形で、熟議が果たされることを切に望んでいます。

 

以下、囲いの部分は抜粋です。

 

 では、推古の具体的な事績をみていくこととしたい。まず、石母田正(『日本の古代国家』)によって整理された「天皇大権」(王位継承に関する大権、外交大権、軍事大権、管理任命権、臣下に対する刑罰権、官僚機構を超越する官制大権など)に類する権能を、彼女が有していたと推察できることを確認しておきたい。

 第一に、王位継承に関する大権だが、上記したように*3大王・崇峻の推戴に関与していたことが指摘できるだけではなく、 その内容はわかりづらいが、遺詔を残して自らの後継者に関してもその意思を表明していることが指摘できる。つまり、田村王子(押坂彦人大兄皇子の子で、のちの大王・舒明)と山城大兄王子(廐戸王子の子)を病床に呼び、各々に言葉を伝えている(推古紀三十六年三月条)。これにより、彼女が大王の選定に積極的に関わっていたことは明らかだろう。

 第二の外交・軍事・管理任命大権などについては、新羅への出兵に際しての「大将軍」や「副将軍」の任命記事(推古紀八年二月是歳条)や来目皇子の新羅征討将軍の任命記事(同十年二月条)、また来目の死去による、兄である当麻王子の新羅征討将軍の任命記事(同十一年四月条)や十五年七月条から十六年九月条へかけての対隋外交記事など、数多くの記事においてその関与は確認できる。

 もっとも、推古十一年二月条あたりから廐戸王子の「皇太子」としての国政参与記事があらわれ、その年齢も三十歳ほどとなっていたので、これらの記述は史実として認められる可能性が高い。そこで、彼の国政参与を前提とすると、推古の比重が後退していった可能性もある。ただし、廐戸王子死後の、三十一年是蔵条にも新羅出兵に関する彼女の下問記事があり、その役割を決して軽んずるわけにはいかない。

 第三の臣下に対する刑罰権については、鞍作鳥の仏像造像とその安置に関する功績により彼に「大仁*4」の位(冠位十二階の第三)を授けている(同十四年五月条)。また、遣隋使小野妹子が隋からの国書を紛失した罪によって、群臣たちの協議により一旦は流刑に処せられるところであったのを、推古の専断により赦免されている(同十六年六月条)。こうした行為は官僚機構を超越する官制大権に匹敵するともいえる。

 さらに、その用語法や内容から、『書紀』編纂時の創作ではないかと早くから疑われている「十七条憲法」(同十二年四月条・朝廷に仕える官人たちに対する服務規定的なもの)は、廐戸王子が一応制定主体者とされている。しかし、彼女がまったく関与していなかったとは考えられないだろう。その第十一条に「功過を明に察て、賞し罰ふること必ず当てよ」とあり、官人の勤務態度により、賞罰を行うことを述べている。すると、こうした官人に対する賞罰に彼女が関わることもあったと考えられる。なかでも、小野妹子を彼女の専断により赦免しているさきの事例に注目すると、彼女が刑罰権および官制大権を行使していたことは十分に認められるだろう。

 また、イデオロギー政策として仏教だけではなく神祇にも配慮する記事(同十五年二月条)が確認できる。だが、この記事以外に祭祀との関連をうかがわせる記事はないので、これをもって推古が祭祀王的特質を所持していたとはいえない。したがって、彼女には祭祀王的側面があったとする通説的な理解はやはり成立しないだろう。

 さらに、彼女のオジの蘇我馬子が、大王の直轄領である葛城県を自らの本拠地であるとして要求したのに対して、明白に拒絶したことなども記される(同三十二年十月条)。

 

 最後に、議論の余地はあるが、冠位十二階の制定(同十一年十二月条)に関しても彼女の意思をすべて否定することはできないだろう。つまり、たとえこのころから廐戸王子が実質的に政策の立案・遂行に関わっていたとしても、最終的に承認するのはやはり推古女王であったと考えるのが妥当だろう。したがって、官人の個人的能力を評価する新たなシステムの一環であった冠位十二階の制定にも、彼女は関与したと推断してよい。

 

 このように、『書紀』の記述をみるかぎり、推古は「天皇大権」に類する権力を行使していたと評価できる。たしかに、廐戸王子や蘇我馬子などによる実質的な補佐はあったかもしれないが、その統治行為は男性統治者となんら変わるところはなかったと考えてよいだろう。ただし、『書紀』の記載すべてを歴史的事実と速断するものではない。

 これまで見てきたように*5、推古の即位は欽明の子女世代が終わるときに実現したと考えられる。その要因としては、第一に欽明と蘇我氏との間の王女であったこと、第二に優れた資質に恵まれていたこと、第三に自らのキサキノ宮や名代の経営を通して世俗的能力を蓄積したこと、第四に敏達の大后としてなんらかの形で王権の中枢に関与したこと、第五に彼女以外の王位継承候補者が若年かつ政治的に未熟であったこと、第六に以上のような彼女の特質が群臣たちに認められていたこと、などがあげられる。

 このように推考することが正しければ、通説のように推古がその祭司王的特性による中継ぎとしての女王であったという認識は認められず、大后経験者ゆえの即位という理解も一面的なものとして退けられるべきだろう。したがって、皇極女王以下のように女性王族が婚姻を通して男王に従属するというあり方は、彼女においてはあまり明確にはなっていないといえる。むしろ彼女は、有能な女性王族の一人として即位に至ったという側面が強い。ただし、王族における同一世代内での男王優位という序列はすでに確立していたのである。*6

 

後日追記(2013.7.6)

推古天皇についての叙述を援用するだけでは、女性天皇の可能性、ひいては女系天皇の可能性というものについて論じ足りていないのだろうなと考えまして、追記をしたいと思います。

 

律令制大成者としての持統天皇についての追記になります。

 

抜粋をする前提部分が長々しいので、抜粋の前に要約をします。

 

(1) 持統天皇は若いころ鸕野讃良皇女*7と呼ばれていました。天智天皇の娘です。

(2) 姉がいて、大田王女*8といい、天智天皇の弟、大海人皇子(のちの天武天皇)と結婚していたが早逝します。そこで後妻になるのです。おじさんの後妻…。ともあれ、その子は草壁皇子です。

(3) 姉と天武天皇の間の子である大津皇子を、草壁皇子のために、謀反の疑いをかけさせ自殺に追い込みます。彼は24歳で「立太子」し、他に高市皇子など有力候補が居ましたが、天武天皇の死後、鸕野讃良皇女は仮に即位、成長を期待したはずの草壁皇子までも死んでしまい、初めて正式に自らが即位すると表明します。この時点で46歳前後。

 

以下、再度、抜粋します。

 

 こうした経緯を踏まえると、彼女は前皇后としての経歴から即位できたものと考えてよい。(中略)また天武の死後、三年が経過しても「皇太子」草壁皇子の即位が実現しなかったことからすると、王位継承時には血統も重んじられるが、個人的な資質・能力などが評価され、三十歳前後で王位につくという前代までの規範が根強く存続していたと考えられる。天武天皇が専制的な政権をうち立てたといっても、若年で政治的経験もいまだ十分ではなかった草壁皇子が、直ちに後継者として即位できる状況ではなかったのだろう。それゆえに、この時点では皇太子「制」はいまだ成立していなかったと判断してよい。すでに指摘されているように、彼が「皇太子」であったことも疑わしいといえるだろう(荒木敏夫『日本古代の皇太子』)。

 そして、草壁皇子の死後には、高市皇子太政大臣に任じられて持統政権を支えることになる。彼は持統政権では「後皇子尊」という尊称で記されるほど重要な役割を担ったと考えられる。この高市皇子が死去した一年後、つまり持統十一年(六九七)八月に、持統は草壁皇子の遺児であるわずか十五歳の皇太子(同年に立太子)、珂瑠皇子(のちの文武天皇)に譲位した。まるで高市皇子の死去を待っていたかのような、孫の珂瑠皇子への譲位であった。

 ここに、前代までの規範に代わる新たな皇位継承システムが始動したと考えてよいだろう。すなわち、それまでは年齢や政治的経験および個人的資質などが考慮されて選定されるシステムだったが、この珂瑠皇子からは律令制に支えられた皇位継承予定者としての皇太子制が名実ともに始まったといえるのである。それは、令に規定される皇太子の家政機関である春宮坊の役職が、珂瑠皇子の持統十一年(六九七)二月に『書紀』にはじめて記載されることでも傍証できる。

 持統は時代を大きく変革した統治者でもあった。すなわち、夫の天武とともに隋・唐の中央集権的支配体制である律令制の導入を積極的に推し進め、その根本法典として浄御原(律)令を制定した。(中略)また、彼女はこうした支配体制を象徴する本格的な都城である藤原京の造営も、推進し完成させた。(中略)この浄御原令において「天皇」「皇后」「皇太子」などの称号(つまり制度として)が正式に定められるとともに、女帝もそのなかに位置づけられたと推定できる。(中略)彼女は律令天皇制の真の確立者といえるのではないだろうか。*9

(中略)

 ところが、彼女が主体的にその完成を推進した律令制は、前近代中国社会の父系的(男性優位)親族組織を基盤として成立したものであった。それゆえに、律令制が日本社会に定着することにより、皮肉なことに、皇族をはじめとする支配層だけでなく、全社会的に、女性の地位が低下していくこととなった。

 

*1:この頃には、天皇の語が定着したか微妙らしく、本文では便宜上、女王表記とされている。

*2:だけど、聖徳太子は現在では実在が疑われてもいる。ただ、ここでは女帝がメインなのでよこにおいておきます。

*3:すいませんが、該当箇所は最小限にしたいので、ご自身でご確認を…。

*4:これで、だいにんと読むそうです。

*5:ここは、抜粋箇所より範囲的に前なので、ご自身でご確認をお願いします…。

*6:推古期は既に7世紀に入っています。この話に入る前に本書では、3世紀に卑弥呼や壱与による祭司王的特性による女性統治(兄弟による補佐ありの例も)、5世紀頃に倭の五王の時期を経て中国から舶来思想として男系優先思想が入ってきて、政治的支配層が中華文明に脳内汚染されることによって、6世紀にかけて、徐々に男系世襲が定着したのではないか、という一つのフローを仮説立てています。著者を擁護する趣旨で言えば、「脳内汚染」ってのは僕が過激な表現を用いているだけです。ただ、保守的と自称している人たちは、実は中国舶来の文化を有難がっているだけかもしれませんよということ。ちなみに、4世紀は、日本にも中国にも史書が欠けていて別名「空白の時代」だそうです。そこで、著者は、男性優位に変わっていくまでの過程で、男王と女王による共同統治が存在したのではないかと言っています。高群逸枝氏によるヒメ・ヒコ制を援用しながら。

*7:うののさららのひめみこ。神田うのの芸名の語源はこの人らしいです…。そんな神々しいものかねと思いますが。

*8:おおたのひめみこと読むそうです。

*9:また、史上二度目の全国的戸籍である庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作らせた功績もある一方で、卑弥呼を彷彿とさせる雨乞いの儀式を多く行ったとの記録もあるそうです。新旧が交錯している特性