From Nowhere To Somewhere ?

ビートルズの曲名から名を採った無定見、無我、無帰属の男が、どこかに辿りつけるのかという疑問文(題名、字面通り)

憲法記念日によせて

 同じお題につき、二年前くらいに、改憲の必要性を指摘した駄文を書き連ねた記憶があります。

 集団的自衛権が注目を集めているので、近時の世相に沿うようにちと調整的な駄文を書き足そうと思いました。まあ、そういう議論を許容する記念日だから、目につく表現が散見されてもご容赦を。

 僕はたしか、過去に書いた文章で、明文化されたシビリアン・コントロールなら許容できると述べました。公正な選挙によって選出された政治家が、成熟した議論を経て、官僚と良好な関係を築きつつ、かつての「軍部の暴走」的な事態を制御するという在り方を模索するならば、改憲はいいんではないかということを述べたのです。これはわりと、改憲派(加憲とか創憲とか色々ありましたが…)の人達の一部にも首肯していただけるんじゃないかと。

 でも、今現在進行中の解釈改憲の仕方を深化させようというやり方は、過去にも指摘されたように、換骨奪胎の悪化ではないかという懸念を拭えません。

 文字通り、「解釈改憲」は、憲法を、解釈することによって、条文の形はそのままに、その規制をすり抜けてしまおうという手法です。

 先だって改憲手続を改正しようとして安倍政権は叩かれましたが、「明文の改憲が時間も労力もかかるのなら不文律でも良い、解釈を工夫して形骸化してしまえ、条文の制度趣旨を殺してしまえ」というわけでしょう。

 保守陣営の人達に一言物申したいことがあります。吉田茂の業績を論じた本やドラマ等が世に問われてきましたね。

 自主憲法と主権的独立を自民党は党是にしてこられたそうですね。僕の生まれるずっと前から。そのことには敬意を評しつつ、疑問を呈します。

 吉田茂マッカーサーと悶着を起こしながらも経済立国を優先したのは、戦後、警察予備隊自衛隊)維持費を除く軍事コストをアメリカに丸ごと投げておいて(ビジネスを超越して国家の趨勢を決めてしまうのでかなり大局的ですが、これもいわゆる「選択と集中」でしょうか)、「まずは経済復興を果たしてしまおう」という「敢えてする」軍事放棄だった、主権国家としての誇りの(留保付き)放棄だったというロジックにはたしかに同調できる面もあるのです。(党内外で、世代交代により、「敢えて」は忘却されて、ベタになっているという指摘もありますが…。)

 しかしですね、「改憲をするのにも、ご本尊アメリカ様のご意向が慮られるべき」というのは主権国家のマインドでしょうか?明文化できないなら換骨奪胎してしまえというのもいかがなものでしょうか。

 宗主国(同盟国と敢えて呼びません)の要請に忠実すぎるのは、立派に属国だと思います。その果てには、上記の党是だったはずの、自主憲法と主権的独立のいずれも遠のくのではないでしょうか?

 こういう状態での、「解釈のみによる(もちろん、下位規範としての自衛隊法等関連法令はさらに長文化し精密化するのでしょうが)改憲」は、「成熟した議論を経た」とは到底、言えないのでは。