From Nowhere To Somewhere ?

ビートルズの曲名から名を採った無定見、無我、無帰属の男が、どこかに辿りつけるのかという疑問文(題名、字面通り)

情報産業が果たす役割の光と影、功罪(プライバシーに関連付けて)

 ネット産業には日々お世話になることが多いです。

 特に知らない単語を調べたりとか、地図や天気を調べたりとか、検索関連は。

 しかし、つい先日にも先鋭化して問題になったカレログ問題のような一例、あたかもプライバシーポリシーなどないかのような事例もあります。グーグルのような大企業に名を連ねるようになった会社であっても、新サービスの記事の合間合間に、プライバシー保護関連の懸念表明記事が投稿されていたりします。

 たしかに、部外者による不正アクセス等は法律が禁じていますが、企業側が防御措置をとることは顧客情報保護の一環で保障されていたりします。それに、うっかりアクセスしてしまった人を処罰もできないので、故意犯だけに限定されているなど苦渋の工夫もあります(Wikipedia不正アクセス禁止法についての項目を参照)。

 しかし、もし仮にですよ。伊坂幸太郎の小説『モダンタイムス』じゃありませんが、「検索から監視が始まる」などという謳い文句どおり、自分が関心を持ったことに対する監視が、国家または国家同視可能な企業(技術的に優れていればよいので、大企業とは限定しません)によってなされていたらどうします?

 日本の判例では、戦前の治安維持法などが果たしたファシズム*1的な思想統制への反省から、憲法21条2項が絶対禁止と言っている「検閲」とは、行政権主導*2のものだと扱われています。

 しかしアメリカの判例では、企業が行政並みに肥大化して私人の人権を侵害することを想定したりしています。

 もちろん、専門の学者さんに対して説教はできないので、これはむしろ苦情にあたるようなものかもしれませんが、先日に記した一般意志のお話の影の部分の議論を深めて欲しくて。ステイトアクション法理の再評価、2010年代バージョン、ステイトアクション2.0(気に入らなければ3以降でも可)が必要になってきてはいないでしょうか(国家同視説(ステイトアクション法理))。

 この説は、要するに、日本の判例が行っている反省や吟味はもっともであるけれども、概念範囲が狭いのではないかという視点に立っているものです。

 「検閲主体は行政権だけ」というと、次の場合、被害者側にはフットワークが重くなります。

 「私人の集まり」=非行政権である情報産業で、高度の技術を持っている会社の従業員が職権濫用で不正アクセスしたとか、主体が大きくなって会社ぐるみでなされたとか、その他ウイルス同視できるアプリ作成をしたとか(これは最近ウイルス作成罪が新設されましたが…)。基本的には、各別の行為に各種の個別法が要ることになります。

 やはり彼らのほうにも、営業の自由とか表現の自由とか複数憲法上の人権が一応観念できますので*3自由主義的には、法の規制がないことによって自由は確保されているといえますから。

 しかし万一の場合に備えて、ステイトアクション最新版へのアップデートは作成されてあるべきじゃないかと思うのです。東先生の『一般意志2.0』はデータベース民主主義を標榜されていましたが、データの改竄とか、プライバシー侵害とか、情報産業従事者の職権濫用(単なるパソコンマニアによる外部侵害もありえますが)への歯止めといったものは、データベースで熟議制民主主義をサポートするという議論の裏地に当たると思います。洋服の仕立てでも、裏地の良さは良品の基礎ですよね?

 一般私人の情報を無断収集するような企業には、ファシストというレッテルを与えることがよい…などという感情論ではありません(実態は似てきますけど)。また、「兎にも角にも一律厳罰に処せ」というのでもありません。それだと本当に検閲禁止に真っ向から抵触しそうなので。

 中国の古代思想じゃないけど(共産化した中国ではなくて)、法家みたいに、「法と教育が重要だ」という話になりそうです。

 ただ、法と教育のうち、前者は、上述してきた懸念と要請とが脳内で同居している状態なのですが。

 他方で、後者については、匿名同士でケンカするなとか、その前提として不確定な噂を広めるなとか、仮に広まってしまった噂が自分の手元に来ても容易には信ずるなとか段階を追った情報リテラシーのようなものまで含んだものではないかと思います。法だけではなくて、多数の社会規範を含んでいて、もう少し全人格的なものです。

 技術立国したいからといって「兎にも角にもコンピュータの扱いに長けた人間」を創れという教育の意味ではないはずです。これだと記述が価値中立過ぎて、ハッキングでもクラッキングでもフィッシングでもなんでもいいって人になるおそれもあります。「規範など知らない、得意だからそれをする」ってことになりかねない*4

 要するに、ざっくり言うとこうなるのかなあ。

 「言論統制や思想統制になるから一切情報産業は規制しないほうがいい」というと、情報産業自身が新たなる行政権に化けるかもしれません。その新たなる「王権神授説」状態になってから、現在の行政法の通説でいう控除説(絶対王権から立法権司法権を奪ったものが行政権)を再現しようとしても無理があると思うんですよ。情報産業自身がモラルを失えば、電子投票電子カルテも、電子通帳も電子証券取引も、改竄可能でしょう。選挙なんて成り立つのかな。選挙が成立不能なら、法律の改廃も不能ですよ。

 それはラディカルすぎるとしても、「気に入らない一個人を社会的に抹殺することくらいは容易にできそうですよね」っていう懸念ですかね。それで、日本版ステイトアクション法理、切実に希望ってことなんですけどね。