From Nowhere To Somewhere ?

ビートルズの曲名から名を採った無定見、無我、無帰属の男が、どこかに辿りつけるのかという疑問文(題名、字面通り)

予防医学と予防法学についてのちょっとした随想

書きやすい方から述べてみたいと思います。

予防医学は、世間的に認知度が高まっていると思うのです。

例えば、メタボ。正式にはメタボリック・シンドローム、生活習慣病なんて言われて、「現在において習慣付けられたあなたの食生活や生活のリズム、運動量が未来のあなたの健康や体型を左右しちゃうんですよ」という論法です。

予防医学というからには、当然それを未然防止するために学者により考察され論証され、企業が商品化したりして人口に膾炙していく。その必要性は健康マニアとか健康オタクと言わなくても、自ずとみんな認識するに至っています。

背景のひとつには、こんな指摘もあります。企業が、太ってしまった従業員に、事後になってから痩せるために走れ、運動チームに入れ、と促しても習慣が先にあるから変えられない、もしくは変え難い。にもかかわらず、発病のしやすさはぐんと上がるわけだから、嫌な言い方だけど社会保障、福利厚生的に手厚いことを自称する企業であればあるほど、悪習慣のある従業員を雇うことは、それだけでコストを抱え込むわけです。「だったら、そうなる前に運動するルームを社内に創ろうぜ」「社内に診療所も創ってやろうぜ」となってくる。将来のコストカットのためですが。

翻って、予防法学です。僕は法律を学んできて思うのですが、予防法学を語ろうとすると、「まだ起こってもいない事件のことをどうしてそんなに熱く語ろうとするの」という人がわりといる気がします。

しかし考えてもみてください。ご存じの方もおられるとは思うのですが、損害賠償額の予定条項を入れるとか、瑕疵担保責任排斥の条項を入れるとか、ほんの一言書いてあるかどうかで未来永劫続くかのような賠償責任のイメージから解放されて、一挙に限定された範囲の賠償範囲でよくなったりするわけです。そうなるとしたら、契約書や定款に、まず予防的によく練られた文言が盛ってあるべきはずです。

あるいは、法的行為に至る前のカウンセリング的な談話や、アドバイスをするための部屋が予防医学と同じコストカットと呼ばれようとも設備としてあるべきです。

だけど、両者の類似性について語る人はあまりいないんですよね。

やっぱり日本は慣行の国であり、法治的ではないのかなあ。コンプライアンスオリンパス以前も以降もすごく知られるようになっていますけれども、すぐに忘却されてしまい、次の大事件が起きるまで塩ジャケや漬物みたいに長期間放って置かれてしまう。

予防医学の周知徹底に比して、これは一体なんなんでしょう。具体的に結果が見えにくいとか?医学もすぐにはわからないと思うんだけどな。

後日付記:

僕がここで言いたかったことは、一社内で法務部と営業部が連携をし、横断的に仲良くなるような仕組み…といったことを超えているんです。

例えば社外の第三者であるメーカー製品のファンが居たとして、しかもその人が特許マニアだとします。

営業の人が、契約をするときに、特許権侵害がないかなど法務部に照会するのは当然として、それとパラレルに、部外者も(社外秘を除き)、カフェテリアかのように、「御社の特許一覧を見たい」と申請すれば見れるような気楽な仕組みです。

社外の人でさえそうなのだから、当然に、内部ではお茶でもすすりながら気楽に法的相談ができるはずです。もちろん、特許は一例であって、日々の業務において生じる法的な問題群についてという趣旨です。

誤解なきように申し添えたいのですが。かりそめにも、「居丈高な法務部」というものを勝手に想定しているわけではありません。ですが(苦笑)、単なるバックアップとか縁の下の力持ち的に何でも引き受けるが目立たない存在とかいうイメージの払拭にもなるとおもうのですよ。誰にとっても良いことじゃないかなという随想だったのです。