From Nowhere To Somewhere ?

ビートルズの曲名から名を採った無定見、無我、無帰属の男が、どこかに辿りつけるのかという疑問文(題名、字面通り)

鑑賞メーター11月利用分

2013年11月の鑑賞メーター

観たビデオの数:1本

観た鑑賞時間:158分

 

ゼロ・ダーク・サーティ コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]

若干ネタバレ。同監督の『ハート・ロッカー』は、爆弾処理没入が麻薬化した男の話。平凡な幸福が耐えられない危険中毒。なるほど心に鍵。今作は、CIA女性分析官が、高卒でリクルートされ、米国をビンラディン殺害まで導く過程。最後「アメリカにとっての正義」が成された後、貸し切りの飛行機の中で彼女は行き先を訊かれ、答えに詰まる。静かに泣く。半分は報われたこと、半分は目標の喪失によるのでは。ビンラディン殺害だけが目標の彼女は、この後燃え尽き症候群?すごく重いラスト。米国はテロとの戦いに勝ったのか、一寸先は闇じゃないかと。

鑑賞日:11月22日 監督:キャスリン・ビグロー

http://video.akahoshitakuya.com/cmt/2747908

 

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鑑賞メーター

http://video.akahoshitakuya.com/

 

特定秘密保護法と日本版NSC設置法の発展していく先について、やや冗長に引用参照しながら懸念してみました

 昨日の特定秘密保護法成立への布石(衆院通過)と並行して、本日はこんな記事が出ました。↓

 

 日本版NSC設置法が成立…参院で可決 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 

 3.11みたいな天変地異による非常事態の横断的対処や、近隣の反日的な仮想敵国との外交、あるいは集団的自衛権を含む集団的安全保障まで、近時の環境変化に対応すべく、「トップダウン型の命令系統が必要だ」という指摘もあって、速攻で同法を成立させたのだろうと部外者の私めは推察します。

 が、どうにも、特定秘密保護法(案)との連携範囲が気になります。

 まあ、結局、どこまでの国家活動が「特定秘密」になって、例えば市民団体が公演に元要職の公務員を招いてご意見を聴くとか、その場にいたジャーナリストが記事を書くとか、あるいは学者さんがその秘密に関わる研究を論壇誌に寄稿したり、さらには購読者が影響されてネットで批判するとして、その一連の過程において、どのラインが豚箱行きになるのか、という自由主義的な(そして極めて庶民的な)懸念であるわけですが。*1

 昨日、強行採決で、知る権利の制約立法が(事実上)成立したので、憲法改正も同じような流れができたら嫌だな、ということを書きました。

 もう少し掘り下げると、96条改正のような流れです。改正規定を過半数まで緩和してしまえば、改正し放題じゃないかというあれです。*2

 今回は、いわゆるショック療法ってやつになればと思って書きます。

 「改憲論者だけど、復古調の明治憲法もどきを作りましょうという人ではない弁護士の先生」が書いている本を、ちと長めながら引用抜粋してご紹介します。 

 本の情報を飛び越したら、↓ 引用抜粋していきます。 

 

「憲法」改正と改悪―憲法が機能していない日本は危ない

「憲法」改正と改悪―憲法が機能していない日本は危ない

 

(3) 9条

国防問題は避けて通れない問題だ

 天皇制に続き改憲論の最大の難問は戦争と平和に関する条文、9条である。

 国家である以上、他国と相いれない価値観や歴史体験から、どうしても話し合いが決裂してぶつかる可能性は否めない。それは、世界の歴史を振り返った時、戦争が途絶えたことがないことに鑑みても明らかである。したがって国家の存続を真面目に考えるならば、国防軍の問題を避けて通ることはできない。

 いわゆる“敗戦ごめんなさい憲法”である日本国憲法は、「日本の政府さえ戦争をしかけなければ世界は平和で、少なくともわれわれは戦争に巻き込まれなくてすむ」という論理の憲法である。そのために、戦力を持っていないと自称してきた。

 しかし、現実はそういうわけにはいかなかった。実際日本は、東西冷戦の時代には、アメリカ側軍事同盟に加わり、日米安全保障条約自衛隊という世界最強の軍隊によって守られてきた。これが現実だ。*3

 憲法9条1項では、日本は戦争を放棄すると定めている。しかし戦争という概念を“国家と国家の武力衝突”とするならば、放棄したからといって戦争が絶対に起こらないかというと、そうではない。

 たとえば、「私は泥棒を放棄し泥棒を認めない」と宣言する。しかし、だから私が泥棒の被害にあわないかというとそうではない。泥棒にとって奪い得るものと隙が私にあれば、私はいつでも泥棒の被害にあう可能性がある。それと同じである。

 

防衛大臣も説明できない、戦争放棄・戦力不保持と自衛権の矛盾

 憲法9条1項の「戦争」放棄に加えて、2項では、戦争の道具と資格を持つことも禁じている、つまり日本は「戦力」と、「交戦権」を持つことも禁じられているのだ。したがって日本は軍隊を持たずに戦争ができないように見える。しかし、現実には「自衛隊」という、どう見ても“軍隊”が存在し、日米安全保障条約が結ばれ、他国が侵略してきたならば、米軍と自衛隊という2つの軍隊が迎え撃つぞ……という構えでいる。だからこそ、現実に、日本国民は守られてきたのだ。

 戦争と軍隊を否定した憲法9条日米安全保障条約の一翼を担う精鋭自衛隊が同時に存在しているこの現実を、どう説明すればよいのだろうか。

 憲法99条が、権力者や公務員に対して憲法尊重擁護義務を課している以上、自衛隊の存在が憲法違反ならば、政府当局に所属する防衛省の役人や自衛隊員は公務員であるから、憲法違反を犯していることになる。だが、現政府は自衛隊の存在は合憲だという前提で動いている。このやっかいな現実には説明が必要だが、残念なことにこの難解な憲法論理をきちんと説明できる政治家は少ない。防衛大臣ですらその説明ができないのだ。現・田中直紀防衛大臣*4憲法9条に関する国会答弁でしどろもどろなのは、プロの政治家として恥ずべきことではある。だが、それほど憲法9条はわかりにくく、説明が難解な条文なのだ。

 とはいえ、それは日本の憲法学者たちの責任でもある。日本の憲法学者の圧倒的多数が、いわゆる護憲派で「9条大好き」人間であるため、これまで9条の現実を無視して教壇に立ってきたという経緯がある。どうも、教えている方も聞いている方もぴんときていなかったに違いない。だから、日本国民の9条に対する教養のレベルが低いのだ。実際、私がこれまでさまざまなところで憲法の講演、講義をしてきた経験からも、この憲法9条に関する認識が、国民一人一人の教養の中で白紙であることを痛感させられる。由々しき問題である。だから、まずはそこから、改めて現実を直視し、9条論に関する議論を深めていかなければならない。

 

独立主権国家である以上、自然権としての「自衛権」は認められる

 では、憲法9条の本質にかかわる自衛隊の問題を整理してみよう。わが国では9条で戦争を否定しているにもかかわらず、なぜ戦争を想定した自衛隊が存在しているのだろうか。

 まず、前提として確認すべきことは、日本が独立主権国家である以上、国家の先天的な権利である自然権(ナチュラル・ライト)としての自衛権は認められているということだ。これは国際法の常識である。*5例えば、現行の刑法36条で、我々は正当防衛が認められているが、仮にその36条がなかったとしても、突然暴漢に襲われ、とっさに突き飛ばしてたまたまその暴漢を殺害してしまったとしても、おそらく、それを誰も批判はできないであろう。これは当然のことである。つまり、仮に、正当防衛が条文に書かれていなくても、人が人であり、(人間の集団である)国家が国家である以上、当然の権利として認められるはずの権利、それが自然権である。

 ということは、憲法の条文に、戦後のどさくさ紛れにどのようなことが書かれてしまっていようが、日本が国家であることを誰も否定できない以上、日本には国家が当然持ち得る自然権としての自衛権が認められるはずだ。つまり、国家であれば、襲われたなら当然、抵抗する権利がある……ということが前提にあるということだ。自衛権がある以上、自衛権を行使する道具を持つことは認められることになる。そこに自衛隊の存在可能性が説明できるのだ。

 

「侵略戦争は放棄するが、自衛戦争は放棄しない」プロならこう読める

 さらにいえば、この件に関してはもう一つ工夫がある。確かに憲法9条1項で戦争を放棄しているのに、自然権がある以上9条1項は意味がない……という論は、いささか雑駁な意見であろう。しかし、国際法の専門家が見れば、今のままの条文でも、論理立てて「侵略戦争はできないが、自衛戦争はできる」という解釈が成り立つのである。

 どういうことかというと、人類は、第1次世界対戦で初めて大量殺戮戦争を体験した。ノーベル賞提唱者のノーベルが発明した“ダイナマイト”や“戦車(タンク)”の導入によって破壊力が増したことが大きかった。つまり民間人の被害が大きい戦争の時代に突入したのだ。昔なら、普段優遇されていたエリート軍人や騎士が戦い、勝ち負けを決めていた。国土と国民は残っていても、騎士が負けたほうが負けという、いわゆるゲーム(というより神の審判)の論理で勝負は決まっていた。ところが第1次世界対戦から総力戦の時代になり、戦争の悲惨度が増していった。

 そうした悲惨な経験から、世界の大国がパリに集まり、「戦争」放棄をうたった「パリ不戦条約」を1928年に結んだ。そこには、日本国憲法9条と同じ文言が記されている。つまり、“国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する”と。

 これはどういうことかというと、こちらからは他国を襲わない。しかし、自国が襲われた場合にはそれに抵抗しても条約違反にはならない。したがって「国際紛争を解決する手段としての戦争、つまり侵略戦争」は放棄するが、それは、侵略された場合の自衛戦争をも放棄するものではない……ということなのだ。これは世界の政治家や法律家の間での共通認識、確立された国際慣行としての読み方である。

 そういう世界常識の下、アメリカは、日本に「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する」9条1項を与えた。ということは、「侵略戦争は放棄するが、自衛戦争までは放棄していない」と、プロなら当然のごとくそう読める条文なのだ。

 むなしい戦争に駆り出されたことから、軍と政府に対する被害者意識に包まれていた圧倒的多数の日本国民は、憲法に9条が盛り込まれたことで、「さあ、いよいよ戦争のない時代が到来する、これで戦争が放棄され一切戦争が起きない」という大きな誤解に包まれた。しかし、パリ不戦条約を知っているプロはそうは読まない。条文に何と書いてあろうが、国家である以上、自然権としての自衛権が認められるし、日本国憲法9条1項の意味は、「侵略戦争を放棄するが、自衛戦争は放棄していない」と読めるのだ。

 それでも「国語的にはそう読めない」と主張する人はいるだろう。しかし法律の条文を国語通りに読めばいいなら、法律家はいらない。原則と先例とルールを知った上で法律を読み運用するために法律家がいるのだ。もし、プロのやり方がいかがわしいと思うなら、政治運動をして、プロがいかがわしい解釈ができないよう法改正を行えばいいだけの話である。

 

自衛隊は戦力ではない”には無理がある

 しかし、この9条にはもう一つ条件がある。

 まず、2項で、「1項の目的を達するために戦力と交戦権を持たない」といってしまえば、侵略のための戦力は持たないが、自衛の戦力は持てることになる。

 しかし、問題は、誰だって「ただ今より侵略します」といって戦争など始めないということだ。ナポレオンもヒットラーも日本もそれをいわなかった。いずれも「民族の自存のため」という「自衛」の名目で侵略をしていった。つまり、そうなれば自然権としての自衛権の行使……という前提は侵略戦争の歯止めではなくなってしまう。ならばどうする?

 そこで、2項で禁止しているのは「戦力」なのだから、戦力でなければOKということにしてしまった。*6だから自衛隊を肯定するために、「自衛隊は戦力ではない」という愚かな論理に入ってしまった。これが今の日本である。

 つまり、政府の論理は、「戦力」とは、単国で他国を侵略できるほどの軍事力をさす。それはたとえば長距離ミサイル攻撃とか、長距離爆撃機で爆弾を投下するとか、空母艦隊から攻撃するといった先制攻撃ができる高度な武器を備えた軍事力のことをさすが、日本はそういう高度な武器を装備していない。つまり、自衛隊は日本が攻め込まれたら追い払うだけの装備しかなく、攻め込む能力は持っていない。だから自衛隊は「戦力」ではない、だから自衛隊は合憲だ、こういう論理なのだ。

 ただ、この論理には無理がある。実は、本来的に、侵略するより強い力を持っていなければ自衛にはならない。24時間いざという時の侵略に対して防衛するには、相当強い戦力を持っていなければ機能しないはずである。弱ければ自衛はできないのだ。したがって、戦力に至らぬ弱い軍事力だから自衛隊は憲法違反ではない……という論理は無理な話であろう。

 しかし、何もそんな姑息な解釈をしなくても、堂々と持つものは持てばいいのではないか。「襲ってくればタダではすまない」という構えを示し、その代わり、「我々の見識においてこちらからは襲わない」という、そのスタンスでよいのではないか。持ったら何をするかわからないから道具を持たないという政府の発想は、まさに敗戦国の“ごめんなさい憲法”そのものだと言えよう。

 したがって、憲法9条に関しては、「独立主権国家として、日本は他国の主権を尊重する。だから侵略などはしない。ただし、侵略されたら名誉のために全力で戦う。そのための自衛軍は備える」こういう筋立てで改正を行うべきだと、私は考えている。

 

平時では認められないが戦争当事国に容認される権利、それが「交戦権

 さらにここで、「交戦権」の解釈に誤解がないよう、改めてふれておきたい。交戦権とは、単純にいえば「戦を交える権利」である。憲法の解釈ならこれでよい。しかし、国際法の解釈ならばこれでは不十分である。たとえば日本と北朝鮮が戦争になったとする。自衛隊が配備された日本海に、第三国の船がやってきた場合、日本の自衛隊はその船に対して「ちょっと待て」「待たなければ撃つぞ」といった威嚇や、「積み荷を見せろ。中身を没収する」という行為を国際法では認められている。つまり、宣戦布告した国は、その領域内外の公海で第三国の船舶を臨検拿捕しても問題がないのだ。もちろん平時であればこうした行為は海賊として取り締まられるのだが、戦争当事国の場合に限り容認されている。

 また、交戦状態では、敵国の占領地で行政管理をすることが、軍隊の権限として認められている。もちろん平時にこれを行えば不法行為(侵略そのもの)として咎められることだ。

 また、戦争であれば、敵対する外国軍人の殺戮も正当化されることになる。

 こうした普段認められない行為が、交戦状態になれば当事国の権利として認められることになる。国際法では、これらをまとめて「交戦権」と呼ぶ。

 

専守防衛」「海外派兵の禁止」「集団的自衛権の不行使」の意味

 憲法9条を語る際、さらに議論になるのが「専守防衛」「海外派兵の禁止」「集団的自衛権の不行使」だ。これらにはどういう意味があるのだろうか。

 

専守防衛

 憲法9条で、日本は侵略戦争はしないと定められているが、自然権の行使として自衛はできるため、「小さな」自衛力は持てるというのが現行政府の解釈だ。とはいえ、敗戦国であり、国際社会で前科者扱いされている日本だから、「自衛」の名でまた侵略するのではないかという疑いを向けられてしまう。そのため、そうではない証拠として、9条の下で定めたのが「専守防衛」の方針だ。どういうことかというと、敵が日本に攻めてきた際に、日本は国内で迎え撃ち、敵を国外に追い返すが、追い返すのは相手国の国境線までで打ち止めにするということだ。決して相手の国境を超えての防衛戦はしない……としているのである。

 

②海外派兵の禁止

 さらに「専守防衛」の延長上にあるのが「海外派兵の禁止」の方針である。つまり、間違っても自衛隊を戦争目的で他の国に派遣しない……というルールである。もちろん教育目的、親善外交目的であれば問題ない。

 この海外派兵についての議論は、昨今では、自民党が与党時代に行った自衛隊のPKO国際連合平和維持活動)としてのカンボジア派遣と、イラク派遣、アフガニスタン派遣を野党社民党などが憲法違反ではないかと指摘して論争になったことで記憶に新しい。中でもアフガニスタン(パキスタン沖)への派遣では、自衛隊が、まだ交戦中であったにもかかわらず、海上で戦争参加している海軍に水とガソリンの供給を行う支援部隊の役割を果たした。当時の政府は、引き金を引く最前線に参戦していないことや武器弾薬を供給していないのだから問題はないと言い放った。しかし、ガソリンと水がなければ戦闘は継続できないのだから、これは明らかに戦争参加ではないかと、私は思う。

 

集団的自衛権の不行使

 さらに「集団的自衛権」だが、これは、ある国が武力攻撃を受けた場合に、密接な関係にある国々が共同して防衛にあたる権利で、国連憲章にも記されているし、国際慣習法でも認められている。したがってメジャーな国が全て軍事同盟を結べば、それに違反して侵略しようという国には、一致協力して集団的に強制措置をとることができる。そして、その延長線上で世界が一つになってしまえば、平和になるはずだが、残念ながら現状ではそれはかなっていない。

 この集団的自衛権のおかげで、日本は最強のアメリカと軍事同盟を結んでいることで、日本にちょっかいを出せばアメリカが反撃してくるという脅威を他国に示すことができ、それが大きな抑止力になっている。*7

 問題は、日本が他国から侵略を受けた際にはアメリカが守ってくれるが、逆にアメリカが侵略されても日本は守る必要がない条文になっていることである。なぜなら、アメリカに押し付けられた“憲法”では、日本は海外派兵が禁じられることになっているため、兵を出すことができないのだ。*8しかし、政治的にそれではまずいということで、その代償として、在日米軍基地の経費を肩代わりしている。確かにお金を出すというのも一つの方策ではあるが、果たして人間の信義の在り方として問題はないのだろうか。日本が基地問題でアメリカと対等・公平に議論ができないのもこうしたことが背景にあるのだ。

 

憲法9条改正の結論

 自衛には、侵略された際、一国で抵抗する「個別的自衛」と仲間で抵抗する「集団的自衛」の2つのパターンがある。

 日本も独立主権国家として、国際法で自衛権の行使を認められているにもかかわらず、政府は、憲法の性格上、個別的自衛権は行使できるが、集団的自衛権を行使することはできない……としている。というのも、集団的自衛権の行使には海外派兵の危険が伴うため、それで憲法違反になる恐れがあるからだ、といわれている。つまり、集団的自衛権は「持っている」のに「使えない」ということだ。しかし、持っているのに使えない以上、それは「持っていない」と同じことである。こうした不具合も憲法9条を改正する際にはきれいに整理しなければいけない。

 憲法9条改正の結論としては、わが国は、“誇りにかけて他国を侵略することはしない。しかし、わが国が侵略されそうになれば、もちろん誇りにかけて自衛戦争は行う。そのために自衛軍は持つ。持った軍隊を使って、国際貢献のために必要とあれば、つまり、国連決議と客観的な国際社会の第三者意思が明らかになれば、できることは行う。また、他国と集団的安全保障条約を結び、同盟国が侵略者でない限り、行動を共にする”ということだろう。日本はこのような“普通の国家”にならなければならないと私は思う。*9

 こういうと、「戦争する普通の国になるのか」という声が上がるが、それは違う。むしろ普通の国になれば、領海内で不審船に襲撃されたり因縁をつけられることもない。正しいものが強い力で毅然と行動をとれば、誰も攻め入ることはできないのだ。これが世界史の常識である。

 ↑  長々しくなりましたが、どう思われますか。僕も基本的には、シビリアン・コントロールが担保されている形での有事法制(戦争をするための法制って意味じゃないですよ)を備えることを念頭に置いた改憲を望む者なので、論調の大半には首肯できるのです。細部では違和感も多少ないではないですが。

 でも、この長ーい引用抜粋参照の本旨はブラック・ユーモア的な警句でありまして。

 「特定秘密保護法案を衆院通過させたのは強行採決であったので、民主制の本義には反しているよね。改憲のための手続も議論を尽くさずに強行採決するような流れが生じたら嫌だね、前提として議論を尽くしたいよね」ということです。

 諸処議論はあろうかと思いますが、ファシズム的でなく、手続的正義を帯びた適正手続を踏んで改憲をするために、改憲派の一派としてはこのように考えている人もおられますよという一例として例示させていただきました。

 以上です。

*1:内閣官房や外務省などの管理する特定管理秘密が約42万件だそうで、他に防衛秘密が約3万7000件。公務員とお友達になるのをやめておけということなのでしょうかね。何がヒットしてしまって逮捕されるか本当に不透明。

*2:解釈改憲で換骨奪胎している現状よりは、若干頓智っぽいけど、割りと僕はありじゃないかと思ったりもします。明文規定が置けるわけですし。「議論を尽くせれば」という重大な留保があるんですが。しかし、議論で説き伏せず、強行採決で知る権利の制約立法がゴリ押しされてしまう現状では期待はできない気がします。

*3:ただ、イージス艦等、レーダー機能などが優れた装備や、ミサイル防衛システム等、専守防衛の縛りがある中での自衛装備なのであって、あくまでも敵地を叩く装備ではないので、本当に米軍の装備を引き算した自衛隊の戦力は世界最強の一角といえるのかは微妙ではないか、という気はします。いや、「特定秘密」に指定される極秘装備が今後増強されるかもしれませんけどね…。

*4:2012年5月初版発行の本です。

*5:ただ、日本の大学では、学部の講義等を拝聴する限りでは自然権は前国家的権利である=国家がある前から存在する権利と教わるので、国家という人造概念の対義的な概念として把握されている気がします。しかも、個人の人権救済の文脈がやはり多いです。まあ、学生に教える程度に情報をダウンサイジング化しているからだと言われればそれまでなのですが…。

*6:「戦力に至らない程度の最小限度の実力」ということで、戦力を100とすると、99.999999…という無限後退をしていく限りで「実力」を増やしていけるという論理。本当に最小限度かは軍事のプロにしかわかりません…。解釈改憲が批判される所以です。

*7:戦略的にこれを用いようというお立場なのかもしれませんが、「アメリカの腰巾着」みたいに目されるのは、日本の精神衛生上は良くないと思うのです…汗

*8:でも、押し付けられた以上は、「ボスがそういうのならそういうことで。」というふうに利用するのも政治だと思うのですが。吉田茂は面従腹背をやってみせたわけでしょう。仮に戦略的に行こうというのであればそれも一法かと。ここで信義がどうのこうの言い始めると、政治のようでいながら、実はヤクザ屋さんの親分子分とか仁義がどうのという話になって、政治じゃなくなるのではないかと。

*9:別に似非の左翼の肩入れをしたいわけではないけれども、一言よろしいでしょうか?仰るとおり歴史的には、日本国憲法9条がパリ不戦条約に起源を持っていても、独自の発展を遂げた解釈論を背後に有していて、世界で独自の地位を占めたことにより、つまり例外的な存在になったからといって、即、異常だとか恥ずかしいということになるのだろうか?名誉ある例外かも知れないではないか?という再度の問いかけは立てておく価値があると思うんですよね。「普通の国家」というのはむしろ、これまでのロジックに囚われてしまっていて未発展なのかもしれないわけでして…。

みなさん、「秘密」を語れるうちに語っておこう…(汗)

 特定秘密保護法案が衆議院の委員会審議を可決で通ったという報道がありました。

 じゃ、知る権利後退で。強行採決で。

 どこらへんが民主主義的なのかなあと不安になりますね。

 まあ、強行採決で通った法案は過去にもあったけど、精神的自由権に関わる重大法案もこれだ。日本の民主主義は、「日本型」と一つの型を自称するのは現段階ではおこがましいかもしれません。民主主義になろうと悪戦苦闘しているところのもの、とはいえても。

 法学部出身(あるいは、在学中)の人は大昔に聞いたことがあるかもしれないですけど、憲法13条が個人の尊厳や尊重を謳っていて、その個人がより良く生きていくためのシステムとして統治機構が仕える。

 戦前と戦後が全く違うと言われているのは、国家という目的のために個人が手段にされるという全体主義否定の論理構造を憲法が内包しているからだとされています。今は、個々人が目的であり、統治機構は手段になっている。はずなのです。

 メディアによる用語の濫用で、知る権利は、プライバシー侵害や粗探しをするだけの野次馬根性に誤解されていたりしますが、憲法が想定しているのは、本来は、次のようなものです。

 間接民主制=国民の代表をして議論する人(代議士≒国会議員や地方議員)が議会に集って政策実施の前提・根拠となる立法を定めるシステムなので、その「全国民の代表」(憲法43条1項)は高潔で高徳の士である必要があります(上記した統治機構は国会という「最高機関」(憲法41条)が筆頭となって、三権分立して機能していることは周知のとおりです)。ここは、笑わないでください。

 彼らはどうやって選ばれるかといえば、選挙ですよね。選挙前に僕らはどうしますか。情報収集しますよね。なぜ情報収集するか。適切に判断を下したいからです。そこで、知る権利が行使できる必要がある。不適切な政治家を登壇させる訳にはいかないからです。ヒトラーみたいな演説や誘導をされたら困るから。あるいは、金権政治とか利権誘導の政治をされると、(一部の人はいいけど)政治が歪むからともいえるかな(こちらは良くある話?)

 芸能人のスキャンダルとかどうでもいいんです。民主制の本義からすると、知る必要はないから…。知りたい人は知ればいいけど。それは趣味の世界ですから。知る権利の「対象にはなる」けど、枝葉末節ということです。

 スパイの知る権利まで十全に保障する皮肉な状況は改善しなくてはならない、目的意識やよし、しかし手段が広汎過ぎ、漠然とし過ぎていませんかという話です(参考:違憲審査基準 - Wikipedia)。

 しかもセーフティーネットとしての審査機関も、法律を通してから設ける予定みたいだ。

 TPP参加はしないしブレないって公約で大勝した自民党が、勝った瞬間に公約を反古(故)にしたことからすれば、あんまり期待はできません。

 

 憲法改正の発議もこんな感じで行くのかな。

 話が飛び過ぎと思うなかれ…精神的自由権制約立法を軽々通してしまうなら、上記のように、選挙や立法等に際しての批判検証もできなくなるおそれがありますから(確定とは言わないが…濃厚ですよね)、憲法改正の審議の経過や真意も伏せされるかもしれません。

 そして、理由付け無き選択肢だけが提示されることになる。

 あ、それは今も同じか?

 

 付録:何が何でも不可視で外在的な何かを貫き通したい人向け?

【国益より憲法-検証・内閣法制局(上)】首相に逆らう法の番人「憲法守って国滅ぶ」+(1/3ページ) - MSN産経ニュース

雑記:読書メモが見つかった

  部屋のクリップボードというか、コルクボードの無駄な紙を処分していたら、ありがちなことだが何層にも重なった雑多なメモの中から、ニーチェのキリスト教批判で自分にとって新鮮だったもののメモが出てきた。

 読後当時の言葉遣いであって、自分の今の理解に比して、「読みたて」の言葉という点でデジャヴとともに違和感も共存していて、興味深かった。

 メモも黄ばんでボロくなっていたので捨てようと思うが、それもちょっと勿体ない。それで、ここに記録しておくことにした。本当に、なんということはないメモだ…。ニーチェを多角的に理解している人から見れば、「何だそんなことか」かもしれない。

 僕にとっては、世界一の信仰を集めている宗教が、ニーチェにより畜群道徳と呼ばれ、断罪され、「神は死んだ」とまで言わしめたのに、今でも機能している厳然たる事実の腑分けは一大事なのだ(一番大事ではないが)。

 というのは、世界の趨勢は彼らのロジックで決まっているのだから。

 とはいえ、あくまでも、「国際政治や外交の上で、国益や公益を考える際に、キリスト教のありようというのは重要だから学ぶ必要がある」というほどのもので、「かの宗教が邪教だから駆逐せよ」とか、わざわざ対立を煽るようなことが言いたいわけではない。

 そこは誤解のないように読んでもらいたいです。

ニーチェ入門 (ちくま新書)

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 (メモ)

 ニーチェによれば、キリスト教の本質であるところの禁欲主義的理想主義は、近代科学や哲学に駆逐されたのではない。キリスト教的マインドのうち、世界観や信仰というパートが、贅肉だとして削ぎ落とされたことにより、露わになったのであり、信仰という制御装置を失ったからこそ、キリスト教の自己否定性、謙抑性は暴走し、本質の帰結としてのニヒリズムが表に出てきた。

 つまり、もともと内包されていたものがシェイブアウトされてきただけであり、キリスト教の抑圧性こそが、人間の可能性の最大の敵ということになる。

 決して、信仰の頽廃(退廃)がニヒリズムの素(基)であるとか、ニヒリズムがキリスト教の対極にあるわけではない。それ自体なのだ。

映像鑑賞の記録。鑑賞メーター10月利用分。

2013年10月の鑑賞メーター

観たビデオの数:4本

観た鑑賞時間:483分

 

裏切りのサーカス コレクターズ・エディション [Blu-ray]

サーカスは英国諜報部の隠語。豪華キャスト。だが難解。ちょっと調べてみたが、原作はジョン・ル・カレで、有名な三部作スパイ小説だそう。読者なら行間を埋められるのか?この題名も一癖あり、ジョン・ル・カレも、マザーグースの古典表現に掛けて題名を練ったのだなあ、と知る。17世紀まで遡るらしいが、英国人の女児が縄跳びなどで結婚相手を占ったりする言葉遊び、とのこと。要するに、ソ連の二重スパイ捜しなのだが、題名や原作からして「英国的」であるため、同じスパイ物でもアクション映画のようにスカッとはしない。だがその方がリアル?

鑑賞日:10月12日 監督:トーマス・アルフレッドソン

http://video.akahoshitakuya.com/cmt/2663010

 

裏切りのサーカス コレクターズ・エディション [DVD]

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L.A.ギャングストーリー ブルーレイ&DVDセット(初回限定生産) [Blu-ray]

アツい話が好きな人にはオススメ。だがぶっちゃけ、禁酒法時代のアル・カポネを追い詰めた『アンタッチャブル』と酷似。闇の権力に抗し、買収に応じない上に熱血硬派で荒くれ者の少数精鋭がガチンコで戦争を挑む、すごい展開。しかも、相手は実在のミッキー・コーエンという戦後すぐの大物だそうだ。ただし細部は事実と異なりそうだ。あくまでもinspired by true storyなので。驚くのは、『アンタッチャブル』の時よりも撮影技術が進歩して迫力満点ではあるが、戦前と戦後で、善人の屈し方、街の支配のされ方が酷似な点だ…。

鑑賞日:10月11日 監督:ルーベン・フライシャー

http://video.akahoshitakuya.com/cmt/2661129

 

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LOOPER/ルーパー [DVD]

若干のネタバレ。最初は、タイムトラベル完成済の未来と違法に繋がる犯罪組織(彼らも近未来の組織だが…)の、「ループ」を巡る掟及び掟破りの顛末やいかにって感じで観てた。なるほど瞬間の着想とはいえ、自らの身の上と照らし、そういう幕引きもあるのか。たしかに彼は『ターミネーター』のジョン・コナーじゃない。あのシリーズではとにかく彼こそが生きる必要がある。だが、この話では逆転。未来から乗り込んでくる主人公が、ある男児を追い詰める。実は主人公こそがレインメーカーを創ってしまう存在と予見された。土壇場の憎悪ループ防止。

鑑賞日:10月09日 監督:ライアン・ジョンソン

http://video.akahoshitakuya.com/cmt/2659624

 

LOOPER/ルーパー [DVD]

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オブリビオン (サントラ・ショートエディションCD付き)(初回生産限定) [DVD]

若干のネタバレ含む。「49号は偶然にもホラティウスの叙事詩に出会い、本人の記憶と一番マッチした人格に辿り着いた」と仮定して、他方で「湖畔の家」の約束を52号も覚えてたとすると、他のクローンも同じく懊悩してた可能性がある。記憶の内容だけを採ってみれば、49号だけ特別とは勘違いかもしれない。だが、彼は詩集を手に取り、現に自己変革をし、地球のために散った。ジュリアは、52号という同時多発的救世主候補第2位(?)に過ぎない人を、受け入れられるのか?地味に、器の同一性と、精神の不同一性って壁を思いちと悲しくなった。

鑑賞日:10月07日 監督:ジョセフ・コシンスキー

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鑑賞メーター

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興味深い指摘

 といっても、約5年前の指摘。下記の書籍です。

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

 

  本棚を整理するってほど大幅な変更は無かったのですが、数冊、本を出し入れする途中で、積読本化していたこの本に気づきました(いや、縦に収納してたので、積んでないのですが…。言葉の綾で)。手に取ってパラパラと最初から読み進めてみると、副題にあるような教育の再生というお題は、今もまだ構造的に解体も改造もされてないんだなあと痛切に思ったりしました。

 素朴なギモンが常々あります。

 今の教育問題は、単純に昔のカリキュラムの再生で甦るようなものだろうか?

 それは北欧式教育(ちなみに教育関連では、色んな世界ランキング上位、あるいは堂々のトップの方式)を、導入解説などを十分にせず、周知徹底のない中で「ゆとり教育」と称して独自に展開、破綻させ、文科相が特定の世代に対して謝罪までしてしまう事態となったことから来る反動で、それに伴うアレルギーじゃないだろうか?

 僕などは、詰め込みの末期で、ゆとりの問題提起が緩やかにされていたご時世に大学受験体験等をしたものだから、前者の非人間的な要素がわかる一方で、後者の残念さもわかるのです。

 単に休みが多くなり、その休みを塾や余暇に単純に振り分けてしまうスケジュールチェンジやシフトにしかならず、パラダイムシフトにはならなかったねという問題。北欧式の元ネタが素晴らしいだけに、対比・対照すると残念さが際立ってしまう。

 

例えば下記のような話です。

 

競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功 (朝日選書)

競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功 (朝日選書)

 

  ゆとり教育が上記の通りのものであって、日本文化の文脈で開花すれば(もうその方向性はないけど)、自発的、創発的に考える子供が生まれるはずだったのに(いや、ゆとり世代にも東大生等は居るわけだから、一概に全否定はできないですけども)。要するに一部のエリートだけじゃなくて、裾野までがそうなるはずだった、はずなのです。多分、文科省の理想論では。

 表題に書いた、興味深い指摘というのは、一億総懺悔の教育版みたいなことを内田樹先生がおっしゃっているということなんです。社会全体での教育上の欠陥、国際政治や平和学の用語を援用していうと、教育上の「構造的暴力」みたいな。

 下記に抜粋してみます。

 例によって例の如しですが、読んでご興味があればご購入の上で全編を読んでみてください。

学力低下」は日本人全員が同罪 

 慶応義塾大と共立薬科大が2008年度に合併する。毎日新聞の社説はこのニュースにこうコメントしている。

 「来年度は大学・短大志望者が総定員に収まる『大学全入時代』。既に定員割れを起こす大学が相次ぐ中で、今回の合併劇は統合・淘汰の時代の始まりを示唆する」

 この状況判断はその通りである。しかし、統合・淘汰を手放しで「市場の論理」として受け容れるべきではない。そのことはこれまでも繰り返し申し上げてきた。毎日新聞の社説もその点については留保をしているが、私の見解とはいささかの「ずれ」がある。社説はこう続く。

 「こんな時代になったのは、少子化が進んだためだけではないのだ。大学教育の『質の低下』という積年の、本質的な問題がある。(中略)経済成長や基準緩和の中で増え続けた大学(2006年度学校基本調査で、国立87校、公立89、私立568)は、今、適当な校数へのスリム化が課題なのではなく、真に高等教育の機関として機能しているか、内実を問われているのだ。この根本的な論議を避け、問題を先送りにし、大学の数を減らすだけなら、大学教育そのものが無用とされる時代を招来しかねない」

 この部分だけを読むと、大学教育の「質の低下」は主として大学の責任であると解されかねない。これは現場の人間としてはいささか異議のあるところである。どの大学でも、あっと驚くような学力の新入生を迎えて仰天している。「いったい高校まで何をやっていたんだ……」と責任を転嫁しても仕方がないから、中等教育の分の「おさらい」から導入教育(補習ですね)をしている。4月からの授業とあまりにレベル差があるので、入学前の3月から補習を始めている大学もある。

 大学教育の「質の低下」の主因は学生の「学力低下」であるが、「新入生の学力」が低いのはどう考えても「大学の責任」ではない。

 「だったらそんな学力の低い学生を大学に入れるな」というご意見もあろうかと思う。

 なるほど。

 だが、その「低い学力」の子どもたちが、それ以上の教育機会を与えられぬまま社会に送り出されることで、日本社会がどのような利益を得ることになるのか、まずそれをご説明願いたい。話はそのあとだ。

 世間の方はご存じあるまいが、大学レベルの教育にキャッチアップさせるために、当今の大学教師たちは10年前、20年前の大学教師たちには想像もつかないような「宿題」やら「補習」やら「添削」やらのオーバーワークを余儀なくされている。定員確保のための「営業活動」を加えると、本学においても教員一人当たりの教育関連の実働時間は10年前の2倍を超えている。もっと過重労働になっている大学もあるだろう。「大学教育の質を維持するための血のにじむような努力」はどの大学も行っている。論説委員は大学の現場をご存じなのであろうか。大学は「もっと努力しろ」で話を済ませてよろしいのであろうか。

 学力低下の原因についての「根本的な議論」はもっと深いところから始めるべきではないかと思う。根本的な議論をしろというなら早速させてもらうが、学力低下の原因は日本社会全体が(この毎日新聞の社説も含めて)、学力低下に無意識のうちに荷担しているという事実のうちにある。「根本的な議論」を始めるなら、まずそこからだ。

 なぜ学力は低下するか?それは「学力が低下する」ことが多くの日本人にさしたる不利益をもたらさないからである。というより、「学力が低下する」ことからかなりの数の日本人が現に利益を得ているからである。

 人間は(少なくとも主観的には)利益のないことはしない。これがすべての社会問題を考えるときの前提である。

 では、子どもたちの学力が低下することから誰が利益を得ているのか?

 まず子どもたち自身である。これは考えれば誰でもわかる。子どもたちは「同学齢集団」の中で競争する。輪切りにされた同学齢100万人ほどの中でどこの順位にいるか、ということだけが重要であって、その順位自体は「絶対学力」とは関係ない。偏差値というのはそういうものである。

 受験は同学齢集団内の競争であるから、絶対学力の低下は現象としては顕在化しない。そして、同学齢集団内だけの競争においては、必ず集団全体の学力は低下する。メンバー数有限の集団における競争では「自分の学力を上げる」ことと「他人の学力を下げる」ことは結果的には同じことだからである。*1「自分のパフォーマンスを上げる」ことと「他人のパフォーマンスを下げる」ことでは、どちらが多くの努力を要するか?これも考えるまでもない。自分が勉強するより、競争相手の勉強を邪魔する方がはるかに簡単である。だから、閉じられた集団で競争させれば、全員が「他人のパフォーマンスを低下させること」に努力を優先的に向けるようになる。授業中に立ち歩くのも、教師に食ってかかるのも、学校の備品を壊すのも、同級生をいじめるのも、子どもたちにとっては結果的にはその時間粛々と勉強しているのと同じ(それ以上の)効果をラットレースでの「勝ち残り」という点ではもたらす。

 だから、問題行動をする子どもたちを「不合理な行動」をしているとみなすのはおそらく間違っている。彼らはむしろ合理性に「取り憑かれている」のである。

 受験生を持つ親は、受験シーズンに「インフルエンザ流行」というニュースを見ると、自分の子供の健康を祈願すると同時に、自分の子供以外の受験生全員がインフルエンザに罹患して高熱を発して試験会場にたどり着けないことを(無意識のうちに)祈願する。

 受験シーズンにソニーと任天堂は新しいゲーム機を発売することがある。「クリスマスシーズンですから」とメーカーは説明するし、そう言ってる本人も自分の言葉を信じているのであろうが、携帯ゲームをこの時期に発売することは受験生の勉強への集中力を上げる方向には1ミリも貢献しないことはメーカーの営業は熟知しているはずである。それでもあえてこの時期を選ぶのは、「(自分自身、あるいは自分の子ども以外の)子どもたちの学力をできるだけ低下させることから私は損失よりもむしろ利益を得るだろう」という見通しについての消費者たちの社会的合意が存在するからである。

 試みに年末年始のテレビをつけてみるとよい。その中に「日本の子どもたちの学力が低下しているそうですから、どうです、ここは一つ、受験シーズンに子どもたちが勉強に集中できるように歌舞音曲は自制しては」というような「常識的判断」の痕跡を発見することは絶望的に困難である。ゴミのようなバラエティを垂れ流す暇に、『三日間基礎英文法丸かじり』とか『映像で見る世界史48時間集中講義』とか『寝ながら学べるドラマ源氏物語』とか、そういうものを放映した方が、テレビの報道番組でキャスターが額に皺を寄せて「この国の学力低下はどうにかならないのでしょうか?」とぼそぼそつぶやいているよりいくらかは効果があるのではないかと私は思うが、私に同意してくれる人間はテレビ業界にはたぶん一人もいない。

 別にそれが「悪い」といっているのではない。人間は「そういうものだ」ということを申し上げているのである。

 大学生の学力低下の原因は、「日本の子どもたちの学力が低下することからは(少なくとも私は)利益が得られる」と考えている日本人が社会の相当数を占めているということにある。市場もメディアも親たちもそして子どもたち自身も、日本人の学力が下がることから自分だけは利益をかすめ取ることができると信じている。

 その暗黙の合意に基づいて、お互い「他人の学力を低下させること」に努めてきた、その結果、日本は「こんな世の中」になってしまったのである。誰が悪いわけでもない。*2

 メディアだって人のことは言えないはずである。私が新聞に寄稿する記事はしばしば「こんなむずかしい言葉を使ってもらっては困ります」と突き返される。

 先日は某新聞から「リベラルアーツ」が「読者には理解できないから、説明を入れてください」と言われた。「エビデンス・ベースト」も一蹴された。

 「では、おたくの新聞は読者の中で一番リテラシーの低い人間を基準に紙面を構成されているわけですね?」と私は訊ねた。「なら、いっそ全部ひらがなにしちゃったらどうです?」。記者はしばらく絶句していた。

 読者に向かって「わからない言葉があったら辞書を引きたまえ」ときっぱり言い切ることのできる新聞はいま存在しない。おそらくメディアの側は「これはリーダー・フレンドリーということです」と言い訳するだろう。

 そうだろうか。そのようなリーダー・フレンドリーネスを追い求めたあげく、現代日本の新聞は半世紀前の新聞と読み比べても、使用できる語彙が激減してしまった。「語彙」を「語い」と書き換え、「範疇」を「範ちゅう」と書き換えることが子どもたちの学力の向上にどのような貢献を果たしたのか、メディア関係者からのご説明があれば、お聞きしたい。

 というわけで、はなはだ失礼とは思うが、さきほどの文章の中の「大学」を「新聞」に置き換えてそのまま毎日新聞の論説委員にお返ししたいと思う。

 「こんな時代になったのは、少子化が進んだためだけではないのだ。新聞の『質の低下』という積年の、本質的な問題がある。(中略)経済成長や基準緩和の中で増え続けた新聞は、今、適当な紙数へのスリム化が課題なのではなく、真にメディアの機関として機能しているか、内実を問われているのだ。この根本的な論議を避け、問題を先送りにし、新聞の数を減らすだけなら、新聞そのものが無用とされる時代を招来しかねない」

 彼の大学論はそのまま新聞論としても読むことができる。どんな論件にも妥当する推論形式は「普遍的真理」を語っているとみなすべきか、それとも「具体的なことは何も語っていない」とみなすべきか。そのご判断はみなさんにお任せしよう。

 繰り返し言うように、別に私は誰かに学力低下の責めをおしつける気はない。子どもたちの学力低下について「誰の責任だ」と凄んでみせる資格のある人間は日本には一人もいない。私たちはこの点については全員同罪である。それゆえ、まず自分自身がそれと知らずにどのように「子どもたちの学力低下」に荷担しているのか、その自己点検から始めるほかないだろうと思う。

 「根本的な議論」はそこからしか始まらない。

 (06年11月22日)

 

 

*1:市立中学でヤンキー系の人々が授業妨害をする利得ってことですね。あるいは、高校受験により、偏差値で既にランク分けされた後の、映像化などされている(それはネタのはずなのだが)、「現在の高校の授業風景」で、「皆が思い思いのことをしていて、一切先生の話を聴かない」という背景はこれだろうと推察されるわけです。互いの学習権侵害が自己の利得になっている。

*2:誰もが悪いとも言えるが。

鑑賞メーター9月分

2013年9月の鑑賞メーター

観たビデオの数:6本

観た鑑賞時間:728分

 

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とある殺人事件の被告人が冤罪だと立証するには、その被告人が獄中で述べるように、とある不気味な旅館の一室で金縛りにかかり、落ち武者の幽霊と遭遇していたと証明できないといけない(笑)。要するに、死亡推定時刻、被告人が一点から動けなかった、現場に居なかったというアリバイの証明。荒唐無稽なのだが、「それ以外に方法がない!」となると、幽霊が見えない裁判官たちにどう受け入れてもらうかを、一緒に必死こいて考えたくなる不思議な魅力に溢れた映画。証拠能力とか証明力とか細々いわず、法曹界の人たちに観てほしい。初心に戻るかも。

鑑賞日:09月21日 監督:三谷幸喜

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ステキな金縛り スタンダード・エディション [DVD]

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岡田は大谷の小説のファンとして大谷の現れる飲み屋に入り浸るが、佐知の健気さに惚れてしまう。佐知は弁護士志望の貧乏学生だった辻を見限って大谷と結婚したが、辻は終盤、大谷の刑事事件の弁護人依頼を、佐知の肉体を対価に引き受ける。という風に、幾多の男を魅了し、あるいは汚されながら、佐知は大谷という破滅型人間を見捨てない。大谷の自殺願望や、愛人の秋子との未遂事件を見るに、大谷は太宰の分身だろうと察しがつく。大谷は踏まれても花を咲かすタンポポの誠実を佐知に見ていた。健気さとスレ違いの度合いがでかすぎて胸を打たれる話。

鑑賞日:09月21日 監督:根岸吉太郎

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ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~ [DVD]

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王道の少年漫画的設定(『鉄人28号』や『プラモ狂四郎』、『プラレス3四郎』のようでボクシング。あとNHKのロボコン等も足せる)に、親子の絆を取り戻すホームドラマが加味されて、とてもおもしろい映画。(1)スクラップのロボットが、偶然にも、(時代遅れのはずの)ただ眼前の人間の動作を真似るシャドーイング機能を有することと、(2)元ボクサーの親と養子に出されかけの息子が、協働でボクシングの動きを仕込むこととが、絶妙にミックスされ、プログラムの高度化した近未来で、ヒューマニティーの復権を訴える効果まで産んでいる。

鑑賞日:09月20日 監督:ショーン・レヴィ

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ネタバレ若干込み。着物や調度品等の美術、雅楽などの音楽が素晴らしい。けど、人選は個人的に△。当時のイケメンは、例えば切れ長の目等が受けたのでは?などと考えるとき、藤原道長役の東山紀之みたいな顔立ちは許容の一方で、光源氏が生田斗真とは、ジャニタレ等が持て囃される、西欧化した現代日本の美的基準では?等と疑問符。女性陣は、桐壺、藤壺、葵の上、夕顔の君、六条御息所は出るが、朧月夜の君、明石の君、紫の上などは出てこない。六条御息所の生霊は、紫式部自身の呪詛だったという解釈は怖すぎるね。安倍晴明も警告するほどとは。

鑑賞日:09月19日 監督:鶴橋康夫

http://video.akahoshitakuya.com/cmt/2614212

 

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これまでの一連の物語の延長としてあるので、すごく大事なところで古いネタが思い出せない人と、思い出せるマニアックな人とでは楽しめる深度が違うかもしれない映画。とはいえ、この映画外のトリビアルなネタが思い出せなくても、小ネタの連続体でもあるので、随所で面白いのだが。ただ、村の名前からして自虐的示唆があるように(?)、迷信やオカルトを科学的に分析していくとネタが尽きてきて困るのか、方向性として、謂れ無き差別だとか悲恋だとか、急にお笑いからシリアスに振れてしまう。途中から実社会の嫌らしさと連動してしまう。不可避?

鑑賞日:09月18日 監督:堤幸彦

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鑑賞日:09月16日 監督:スティーブン・ケイ

http://video.akahoshitakuya.com/cmt/2607244

 

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