From Nowhere To Somewhere ?

ビートルズの曲名から名を採った無定見、無我、無帰属の男が、どこかに辿りつけるのかという疑問文(題名、字面通り)

特定秘密保護法と日本版NSC設置法の発展していく先について、やや冗長に引用参照しながら懸念してみました

 昨日の特定秘密保護法成立への布石(衆院通過)と並行して、本日はこんな記事が出ました。↓

 

 日本版NSC設置法が成立…参院で可決 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 

 3.11みたいな天変地異による非常事態の横断的対処や、近隣の反日的な仮想敵国との外交、あるいは集団的自衛権を含む集団的安全保障まで、近時の環境変化に対応すべく、「トップダウン型の命令系統が必要だ」という指摘もあって、速攻で同法を成立させたのだろうと部外者の私めは推察します。

 が、どうにも、特定秘密保護法(案)との連携範囲が気になります。

 まあ、結局、どこまでの国家活動が「特定秘密」になって、例えば市民団体が公演に元要職の公務員を招いてご意見を聴くとか、その場にいたジャーナリストが記事を書くとか、あるいは学者さんがその秘密に関わる研究を論壇誌に寄稿したり、さらには購読者が影響されてネットで批判するとして、その一連の過程において、どのラインが豚箱行きになるのか、という自由主義的な(そして極めて庶民的な)懸念であるわけですが。*1

 昨日、強行採決で、知る権利の制約立法が(事実上)成立したので、憲法改正も同じような流れができたら嫌だな、ということを書きました。

 もう少し掘り下げると、96条改正のような流れです。改正規定を過半数まで緩和してしまえば、改正し放題じゃないかというあれです。*2

 今回は、いわゆるショック療法ってやつになればと思って書きます。

 「改憲論者だけど、復古調の明治憲法もどきを作りましょうという人ではない弁護士の先生」が書いている本を、ちと長めながら引用抜粋してご紹介します。 

 本の情報を飛び越したら、↓ 引用抜粋していきます。 

 

「憲法」改正と改悪―憲法が機能していない日本は危ない

「憲法」改正と改悪―憲法が機能していない日本は危ない

 

(3) 9条

国防問題は避けて通れない問題だ

 天皇制に続き改憲論の最大の難問は戦争と平和に関する条文、9条である。

 国家である以上、他国と相いれない価値観や歴史体験から、どうしても話し合いが決裂してぶつかる可能性は否めない。それは、世界の歴史を振り返った時、戦争が途絶えたことがないことに鑑みても明らかである。したがって国家の存続を真面目に考えるならば、国防軍の問題を避けて通ることはできない。

 いわゆる“敗戦ごめんなさい憲法”である日本国憲法は、「日本の政府さえ戦争をしかけなければ世界は平和で、少なくともわれわれは戦争に巻き込まれなくてすむ」という論理の憲法である。そのために、戦力を持っていないと自称してきた。

 しかし、現実はそういうわけにはいかなかった。実際日本は、東西冷戦の時代には、アメリカ側軍事同盟に加わり、日米安全保障条約自衛隊という世界最強の軍隊によって守られてきた。これが現実だ。*3

 憲法9条1項では、日本は戦争を放棄すると定めている。しかし戦争という概念を“国家と国家の武力衝突”とするならば、放棄したからといって戦争が絶対に起こらないかというと、そうではない。

 たとえば、「私は泥棒を放棄し泥棒を認めない」と宣言する。しかし、だから私が泥棒の被害にあわないかというとそうではない。泥棒にとって奪い得るものと隙が私にあれば、私はいつでも泥棒の被害にあう可能性がある。それと同じである。

 

防衛大臣も説明できない、戦争放棄・戦力不保持と自衛権の矛盾

 憲法9条1項の「戦争」放棄に加えて、2項では、戦争の道具と資格を持つことも禁じている、つまり日本は「戦力」と、「交戦権」を持つことも禁じられているのだ。したがって日本は軍隊を持たずに戦争ができないように見える。しかし、現実には「自衛隊」という、どう見ても“軍隊”が存在し、日米安全保障条約が結ばれ、他国が侵略してきたならば、米軍と自衛隊という2つの軍隊が迎え撃つぞ……という構えでいる。だからこそ、現実に、日本国民は守られてきたのだ。

 戦争と軍隊を否定した憲法9条日米安全保障条約の一翼を担う精鋭自衛隊が同時に存在しているこの現実を、どう説明すればよいのだろうか。

 憲法99条が、権力者や公務員に対して憲法尊重擁護義務を課している以上、自衛隊の存在が憲法違反ならば、政府当局に所属する防衛省の役人や自衛隊員は公務員であるから、憲法違反を犯していることになる。だが、現政府は自衛隊の存在は合憲だという前提で動いている。このやっかいな現実には説明が必要だが、残念なことにこの難解な憲法論理をきちんと説明できる政治家は少ない。防衛大臣ですらその説明ができないのだ。現・田中直紀防衛大臣*4憲法9条に関する国会答弁でしどろもどろなのは、プロの政治家として恥ずべきことではある。だが、それほど憲法9条はわかりにくく、説明が難解な条文なのだ。

 とはいえ、それは日本の憲法学者たちの責任でもある。日本の憲法学者の圧倒的多数が、いわゆる護憲派で「9条大好き」人間であるため、これまで9条の現実を無視して教壇に立ってきたという経緯がある。どうも、教えている方も聞いている方もぴんときていなかったに違いない。だから、日本国民の9条に対する教養のレベルが低いのだ。実際、私がこれまでさまざまなところで憲法の講演、講義をしてきた経験からも、この憲法9条に関する認識が、国民一人一人の教養の中で白紙であることを痛感させられる。由々しき問題である。だから、まずはそこから、改めて現実を直視し、9条論に関する議論を深めていかなければならない。

 

独立主権国家である以上、自然権としての「自衛権」は認められる

 では、憲法9条の本質にかかわる自衛隊の問題を整理してみよう。わが国では9条で戦争を否定しているにもかかわらず、なぜ戦争を想定した自衛隊が存在しているのだろうか。

 まず、前提として確認すべきことは、日本が独立主権国家である以上、国家の先天的な権利である自然権(ナチュラル・ライト)としての自衛権は認められているということだ。これは国際法の常識である。*5例えば、現行の刑法36条で、我々は正当防衛が認められているが、仮にその36条がなかったとしても、突然暴漢に襲われ、とっさに突き飛ばしてたまたまその暴漢を殺害してしまったとしても、おそらく、それを誰も批判はできないであろう。これは当然のことである。つまり、仮に、正当防衛が条文に書かれていなくても、人が人であり、(人間の集団である)国家が国家である以上、当然の権利として認められるはずの権利、それが自然権である。

 ということは、憲法の条文に、戦後のどさくさ紛れにどのようなことが書かれてしまっていようが、日本が国家であることを誰も否定できない以上、日本には国家が当然持ち得る自然権としての自衛権が認められるはずだ。つまり、国家であれば、襲われたなら当然、抵抗する権利がある……ということが前提にあるということだ。自衛権がある以上、自衛権を行使する道具を持つことは認められることになる。そこに自衛隊の存在可能性が説明できるのだ。

 

「侵略戦争は放棄するが、自衛戦争は放棄しない」プロならこう読める

 さらにいえば、この件に関してはもう一つ工夫がある。確かに憲法9条1項で戦争を放棄しているのに、自然権がある以上9条1項は意味がない……という論は、いささか雑駁な意見であろう。しかし、国際法の専門家が見れば、今のままの条文でも、論理立てて「侵略戦争はできないが、自衛戦争はできる」という解釈が成り立つのである。

 どういうことかというと、人類は、第1次世界対戦で初めて大量殺戮戦争を体験した。ノーベル賞提唱者のノーベルが発明した“ダイナマイト”や“戦車(タンク)”の導入によって破壊力が増したことが大きかった。つまり民間人の被害が大きい戦争の時代に突入したのだ。昔なら、普段優遇されていたエリート軍人や騎士が戦い、勝ち負けを決めていた。国土と国民は残っていても、騎士が負けたほうが負けという、いわゆるゲーム(というより神の審判)の論理で勝負は決まっていた。ところが第1次世界対戦から総力戦の時代になり、戦争の悲惨度が増していった。

 そうした悲惨な経験から、世界の大国がパリに集まり、「戦争」放棄をうたった「パリ不戦条約」を1928年に結んだ。そこには、日本国憲法9条と同じ文言が記されている。つまり、“国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する”と。

 これはどういうことかというと、こちらからは他国を襲わない。しかし、自国が襲われた場合にはそれに抵抗しても条約違反にはならない。したがって「国際紛争を解決する手段としての戦争、つまり侵略戦争」は放棄するが、それは、侵略された場合の自衛戦争をも放棄するものではない……ということなのだ。これは世界の政治家や法律家の間での共通認識、確立された国際慣行としての読み方である。

 そういう世界常識の下、アメリカは、日本に「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する」9条1項を与えた。ということは、「侵略戦争は放棄するが、自衛戦争までは放棄していない」と、プロなら当然のごとくそう読める条文なのだ。

 むなしい戦争に駆り出されたことから、軍と政府に対する被害者意識に包まれていた圧倒的多数の日本国民は、憲法に9条が盛り込まれたことで、「さあ、いよいよ戦争のない時代が到来する、これで戦争が放棄され一切戦争が起きない」という大きな誤解に包まれた。しかし、パリ不戦条約を知っているプロはそうは読まない。条文に何と書いてあろうが、国家である以上、自然権としての自衛権が認められるし、日本国憲法9条1項の意味は、「侵略戦争を放棄するが、自衛戦争は放棄していない」と読めるのだ。

 それでも「国語的にはそう読めない」と主張する人はいるだろう。しかし法律の条文を国語通りに読めばいいなら、法律家はいらない。原則と先例とルールを知った上で法律を読み運用するために法律家がいるのだ。もし、プロのやり方がいかがわしいと思うなら、政治運動をして、プロがいかがわしい解釈ができないよう法改正を行えばいいだけの話である。

 

自衛隊は戦力ではない”には無理がある

 しかし、この9条にはもう一つ条件がある。

 まず、2項で、「1項の目的を達するために戦力と交戦権を持たない」といってしまえば、侵略のための戦力は持たないが、自衛の戦力は持てることになる。

 しかし、問題は、誰だって「ただ今より侵略します」といって戦争など始めないということだ。ナポレオンもヒットラーも日本もそれをいわなかった。いずれも「民族の自存のため」という「自衛」の名目で侵略をしていった。つまり、そうなれば自然権としての自衛権の行使……という前提は侵略戦争の歯止めではなくなってしまう。ならばどうする?

 そこで、2項で禁止しているのは「戦力」なのだから、戦力でなければOKということにしてしまった。*6だから自衛隊を肯定するために、「自衛隊は戦力ではない」という愚かな論理に入ってしまった。これが今の日本である。

 つまり、政府の論理は、「戦力」とは、単国で他国を侵略できるほどの軍事力をさす。それはたとえば長距離ミサイル攻撃とか、長距離爆撃機で爆弾を投下するとか、空母艦隊から攻撃するといった先制攻撃ができる高度な武器を備えた軍事力のことをさすが、日本はそういう高度な武器を装備していない。つまり、自衛隊は日本が攻め込まれたら追い払うだけの装備しかなく、攻め込む能力は持っていない。だから自衛隊は「戦力」ではない、だから自衛隊は合憲だ、こういう論理なのだ。

 ただ、この論理には無理がある。実は、本来的に、侵略するより強い力を持っていなければ自衛にはならない。24時間いざという時の侵略に対して防衛するには、相当強い戦力を持っていなければ機能しないはずである。弱ければ自衛はできないのだ。したがって、戦力に至らぬ弱い軍事力だから自衛隊は憲法違反ではない……という論理は無理な話であろう。

 しかし、何もそんな姑息な解釈をしなくても、堂々と持つものは持てばいいのではないか。「襲ってくればタダではすまない」という構えを示し、その代わり、「我々の見識においてこちらからは襲わない」という、そのスタンスでよいのではないか。持ったら何をするかわからないから道具を持たないという政府の発想は、まさに敗戦国の“ごめんなさい憲法”そのものだと言えよう。

 したがって、憲法9条に関しては、「独立主権国家として、日本は他国の主権を尊重する。だから侵略などはしない。ただし、侵略されたら名誉のために全力で戦う。そのための自衛軍は備える」こういう筋立てで改正を行うべきだと、私は考えている。

 

平時では認められないが戦争当事国に容認される権利、それが「交戦権

 さらにここで、「交戦権」の解釈に誤解がないよう、改めてふれておきたい。交戦権とは、単純にいえば「戦を交える権利」である。憲法の解釈ならこれでよい。しかし、国際法の解釈ならばこれでは不十分である。たとえば日本と北朝鮮が戦争になったとする。自衛隊が配備された日本海に、第三国の船がやってきた場合、日本の自衛隊はその船に対して「ちょっと待て」「待たなければ撃つぞ」といった威嚇や、「積み荷を見せろ。中身を没収する」という行為を国際法では認められている。つまり、宣戦布告した国は、その領域内外の公海で第三国の船舶を臨検拿捕しても問題がないのだ。もちろん平時であればこうした行為は海賊として取り締まられるのだが、戦争当事国の場合に限り容認されている。

 また、交戦状態では、敵国の占領地で行政管理をすることが、軍隊の権限として認められている。もちろん平時にこれを行えば不法行為(侵略そのもの)として咎められることだ。

 また、戦争であれば、敵対する外国軍人の殺戮も正当化されることになる。

 こうした普段認められない行為が、交戦状態になれば当事国の権利として認められることになる。国際法では、これらをまとめて「交戦権」と呼ぶ。

 

専守防衛」「海外派兵の禁止」「集団的自衛権の不行使」の意味

 憲法9条を語る際、さらに議論になるのが「専守防衛」「海外派兵の禁止」「集団的自衛権の不行使」だ。これらにはどういう意味があるのだろうか。

 

専守防衛

 憲法9条で、日本は侵略戦争はしないと定められているが、自然権の行使として自衛はできるため、「小さな」自衛力は持てるというのが現行政府の解釈だ。とはいえ、敗戦国であり、国際社会で前科者扱いされている日本だから、「自衛」の名でまた侵略するのではないかという疑いを向けられてしまう。そのため、そうではない証拠として、9条の下で定めたのが「専守防衛」の方針だ。どういうことかというと、敵が日本に攻めてきた際に、日本は国内で迎え撃ち、敵を国外に追い返すが、追い返すのは相手国の国境線までで打ち止めにするということだ。決して相手の国境を超えての防衛戦はしない……としているのである。

 

②海外派兵の禁止

 さらに「専守防衛」の延長上にあるのが「海外派兵の禁止」の方針である。つまり、間違っても自衛隊を戦争目的で他の国に派遣しない……というルールである。もちろん教育目的、親善外交目的であれば問題ない。

 この海外派兵についての議論は、昨今では、自民党が与党時代に行った自衛隊のPKO国際連合平和維持活動)としてのカンボジア派遣と、イラク派遣、アフガニスタン派遣を野党社民党などが憲法違反ではないかと指摘して論争になったことで記憶に新しい。中でもアフガニスタン(パキスタン沖)への派遣では、自衛隊が、まだ交戦中であったにもかかわらず、海上で戦争参加している海軍に水とガソリンの供給を行う支援部隊の役割を果たした。当時の政府は、引き金を引く最前線に参戦していないことや武器弾薬を供給していないのだから問題はないと言い放った。しかし、ガソリンと水がなければ戦闘は継続できないのだから、これは明らかに戦争参加ではないかと、私は思う。

 

集団的自衛権の不行使

 さらに「集団的自衛権」だが、これは、ある国が武力攻撃を受けた場合に、密接な関係にある国々が共同して防衛にあたる権利で、国連憲章にも記されているし、国際慣習法でも認められている。したがってメジャーな国が全て軍事同盟を結べば、それに違反して侵略しようという国には、一致協力して集団的に強制措置をとることができる。そして、その延長線上で世界が一つになってしまえば、平和になるはずだが、残念ながら現状ではそれはかなっていない。

 この集団的自衛権のおかげで、日本は最強のアメリカと軍事同盟を結んでいることで、日本にちょっかいを出せばアメリカが反撃してくるという脅威を他国に示すことができ、それが大きな抑止力になっている。*7

 問題は、日本が他国から侵略を受けた際にはアメリカが守ってくれるが、逆にアメリカが侵略されても日本は守る必要がない条文になっていることである。なぜなら、アメリカに押し付けられた“憲法”では、日本は海外派兵が禁じられることになっているため、兵を出すことができないのだ。*8しかし、政治的にそれではまずいということで、その代償として、在日米軍基地の経費を肩代わりしている。確かにお金を出すというのも一つの方策ではあるが、果たして人間の信義の在り方として問題はないのだろうか。日本が基地問題でアメリカと対等・公平に議論ができないのもこうしたことが背景にあるのだ。

 

憲法9条改正の結論

 自衛には、侵略された際、一国で抵抗する「個別的自衛」と仲間で抵抗する「集団的自衛」の2つのパターンがある。

 日本も独立主権国家として、国際法で自衛権の行使を認められているにもかかわらず、政府は、憲法の性格上、個別的自衛権は行使できるが、集団的自衛権を行使することはできない……としている。というのも、集団的自衛権の行使には海外派兵の危険が伴うため、それで憲法違反になる恐れがあるからだ、といわれている。つまり、集団的自衛権は「持っている」のに「使えない」ということだ。しかし、持っているのに使えない以上、それは「持っていない」と同じことである。こうした不具合も憲法9条を改正する際にはきれいに整理しなければいけない。

 憲法9条改正の結論としては、わが国は、“誇りにかけて他国を侵略することはしない。しかし、わが国が侵略されそうになれば、もちろん誇りにかけて自衛戦争は行う。そのために自衛軍は持つ。持った軍隊を使って、国際貢献のために必要とあれば、つまり、国連決議と客観的な国際社会の第三者意思が明らかになれば、できることは行う。また、他国と集団的安全保障条約を結び、同盟国が侵略者でない限り、行動を共にする”ということだろう。日本はこのような“普通の国家”にならなければならないと私は思う。*9

 こういうと、「戦争する普通の国になるのか」という声が上がるが、それは違う。むしろ普通の国になれば、領海内で不審船に襲撃されたり因縁をつけられることもない。正しいものが強い力で毅然と行動をとれば、誰も攻め入ることはできないのだ。これが世界史の常識である。

 ↑  長々しくなりましたが、どう思われますか。僕も基本的には、シビリアン・コントロールが担保されている形での有事法制(戦争をするための法制って意味じゃないですよ)を備えることを念頭に置いた改憲を望む者なので、論調の大半には首肯できるのです。細部では違和感も多少ないではないですが。

 でも、この長ーい引用抜粋参照の本旨はブラック・ユーモア的な警句でありまして。

 「特定秘密保護法案を衆院通過させたのは強行採決であったので、民主制の本義には反しているよね。改憲のための手続も議論を尽くさずに強行採決するような流れが生じたら嫌だね、前提として議論を尽くしたいよね」ということです。

 諸処議論はあろうかと思いますが、ファシズム的でなく、手続的正義を帯びた適正手続を踏んで改憲をするために、改憲派の一派としてはこのように考えている人もおられますよという一例として例示させていただきました。

 以上です。

*1:内閣官房や外務省などの管理する特定管理秘密が約42万件だそうで、他に防衛秘密が約3万7000件。公務員とお友達になるのをやめておけということなのでしょうかね。何がヒットしてしまって逮捕されるか本当に不透明。

*2:解釈改憲で換骨奪胎している現状よりは、若干頓智っぽいけど、割りと僕はありじゃないかと思ったりもします。明文規定が置けるわけですし。「議論を尽くせれば」という重大な留保があるんですが。しかし、議論で説き伏せず、強行採決で知る権利の制約立法がゴリ押しされてしまう現状では期待はできない気がします。

*3:ただ、イージス艦等、レーダー機能などが優れた装備や、ミサイル防衛システム等、専守防衛の縛りがある中での自衛装備なのであって、あくまでも敵地を叩く装備ではないので、本当に米軍の装備を引き算した自衛隊の戦力は世界最強の一角といえるのかは微妙ではないか、という気はします。いや、「特定秘密」に指定される極秘装備が今後増強されるかもしれませんけどね…。

*4:2012年5月初版発行の本です。

*5:ただ、日本の大学では、学部の講義等を拝聴する限りでは自然権は前国家的権利である=国家がある前から存在する権利と教わるので、国家という人造概念の対義的な概念として把握されている気がします。しかも、個人の人権救済の文脈がやはり多いです。まあ、学生に教える程度に情報をダウンサイジング化しているからだと言われればそれまでなのですが…。

*6:「戦力に至らない程度の最小限度の実力」ということで、戦力を100とすると、99.999999…という無限後退をしていく限りで「実力」を増やしていけるという論理。本当に最小限度かは軍事のプロにしかわかりません…。解釈改憲が批判される所以です。

*7:戦略的にこれを用いようというお立場なのかもしれませんが、「アメリカの腰巾着」みたいに目されるのは、日本の精神衛生上は良くないと思うのです…汗

*8:でも、押し付けられた以上は、「ボスがそういうのならそういうことで。」というふうに利用するのも政治だと思うのですが。吉田茂は面従腹背をやってみせたわけでしょう。仮に戦略的に行こうというのであればそれも一法かと。ここで信義がどうのこうの言い始めると、政治のようでいながら、実はヤクザ屋さんの親分子分とか仁義がどうのという話になって、政治じゃなくなるのではないかと。

*9:別に似非の左翼の肩入れをしたいわけではないけれども、一言よろしいでしょうか?仰るとおり歴史的には、日本国憲法9条がパリ不戦条約に起源を持っていても、独自の発展を遂げた解釈論を背後に有していて、世界で独自の地位を占めたことにより、つまり例外的な存在になったからといって、即、異常だとか恥ずかしいということになるのだろうか?名誉ある例外かも知れないではないか?という再度の問いかけは立てておく価値があると思うんですよね。「普通の国家」というのはむしろ、これまでのロジックに囚われてしまっていて未発展なのかもしれないわけでして…。