From Nowhere To Somewhere ?

ビートルズの曲名から名を採った無定見、無我、無帰属の男が、どこかに辿りつけるのかという疑問文(題名、字面通り)

興味深い指摘

 といっても、約5年前の指摘。下記の書籍です。

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

 

  本棚を整理するってほど大幅な変更は無かったのですが、数冊、本を出し入れする途中で、積読本化していたこの本に気づきました(いや、縦に収納してたので、積んでないのですが…。言葉の綾で)。手に取ってパラパラと最初から読み進めてみると、副題にあるような教育の再生というお題は、今もまだ構造的に解体も改造もされてないんだなあと痛切に思ったりしました。

 素朴なギモンが常々あります。

 今の教育問題は、単純に昔のカリキュラムの再生で甦るようなものだろうか?

 それは北欧式教育(ちなみに教育関連では、色んな世界ランキング上位、あるいは堂々のトップの方式)を、導入解説などを十分にせず、周知徹底のない中で「ゆとり教育」と称して独自に展開、破綻させ、文科相が特定の世代に対して謝罪までしてしまう事態となったことから来る反動で、それに伴うアレルギーじゃないだろうか?

 僕などは、詰め込みの末期で、ゆとりの問題提起が緩やかにされていたご時世に大学受験体験等をしたものだから、前者の非人間的な要素がわかる一方で、後者の残念さもわかるのです。

 単に休みが多くなり、その休みを塾や余暇に単純に振り分けてしまうスケジュールチェンジやシフトにしかならず、パラダイムシフトにはならなかったねという問題。北欧式の元ネタが素晴らしいだけに、対比・対照すると残念さが際立ってしまう。

 

例えば下記のような話です。

 

競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功 (朝日選書)

競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功 (朝日選書)

 

  ゆとり教育が上記の通りのものであって、日本文化の文脈で開花すれば(もうその方向性はないけど)、自発的、創発的に考える子供が生まれるはずだったのに(いや、ゆとり世代にも東大生等は居るわけだから、一概に全否定はできないですけども)。要するに一部のエリートだけじゃなくて、裾野までがそうなるはずだった、はずなのです。多分、文科省の理想論では。

 表題に書いた、興味深い指摘というのは、一億総懺悔の教育版みたいなことを内田樹先生がおっしゃっているということなんです。社会全体での教育上の欠陥、国際政治や平和学の用語を援用していうと、教育上の「構造的暴力」みたいな。

 下記に抜粋してみます。

 例によって例の如しですが、読んでご興味があればご購入の上で全編を読んでみてください。

学力低下」は日本人全員が同罪 

 慶応義塾大と共立薬科大が2008年度に合併する。毎日新聞の社説はこのニュースにこうコメントしている。

 「来年度は大学・短大志望者が総定員に収まる『大学全入時代』。既に定員割れを起こす大学が相次ぐ中で、今回の合併劇は統合・淘汰の時代の始まりを示唆する」

 この状況判断はその通りである。しかし、統合・淘汰を手放しで「市場の論理」として受け容れるべきではない。そのことはこれまでも繰り返し申し上げてきた。毎日新聞の社説もその点については留保をしているが、私の見解とはいささかの「ずれ」がある。社説はこう続く。

 「こんな時代になったのは、少子化が進んだためだけではないのだ。大学教育の『質の低下』という積年の、本質的な問題がある。(中略)経済成長や基準緩和の中で増え続けた大学(2006年度学校基本調査で、国立87校、公立89、私立568)は、今、適当な校数へのスリム化が課題なのではなく、真に高等教育の機関として機能しているか、内実を問われているのだ。この根本的な論議を避け、問題を先送りにし、大学の数を減らすだけなら、大学教育そのものが無用とされる時代を招来しかねない」

 この部分だけを読むと、大学教育の「質の低下」は主として大学の責任であると解されかねない。これは現場の人間としてはいささか異議のあるところである。どの大学でも、あっと驚くような学力の新入生を迎えて仰天している。「いったい高校まで何をやっていたんだ……」と責任を転嫁しても仕方がないから、中等教育の分の「おさらい」から導入教育(補習ですね)をしている。4月からの授業とあまりにレベル差があるので、入学前の3月から補習を始めている大学もある。

 大学教育の「質の低下」の主因は学生の「学力低下」であるが、「新入生の学力」が低いのはどう考えても「大学の責任」ではない。

 「だったらそんな学力の低い学生を大学に入れるな」というご意見もあろうかと思う。

 なるほど。

 だが、その「低い学力」の子どもたちが、それ以上の教育機会を与えられぬまま社会に送り出されることで、日本社会がどのような利益を得ることになるのか、まずそれをご説明願いたい。話はそのあとだ。

 世間の方はご存じあるまいが、大学レベルの教育にキャッチアップさせるために、当今の大学教師たちは10年前、20年前の大学教師たちには想像もつかないような「宿題」やら「補習」やら「添削」やらのオーバーワークを余儀なくされている。定員確保のための「営業活動」を加えると、本学においても教員一人当たりの教育関連の実働時間は10年前の2倍を超えている。もっと過重労働になっている大学もあるだろう。「大学教育の質を維持するための血のにじむような努力」はどの大学も行っている。論説委員は大学の現場をご存じなのであろうか。大学は「もっと努力しろ」で話を済ませてよろしいのであろうか。

 学力低下の原因についての「根本的な議論」はもっと深いところから始めるべきではないかと思う。根本的な議論をしろというなら早速させてもらうが、学力低下の原因は日本社会全体が(この毎日新聞の社説も含めて)、学力低下に無意識のうちに荷担しているという事実のうちにある。「根本的な議論」を始めるなら、まずそこからだ。

 なぜ学力は低下するか?それは「学力が低下する」ことが多くの日本人にさしたる不利益をもたらさないからである。というより、「学力が低下する」ことからかなりの数の日本人が現に利益を得ているからである。

 人間は(少なくとも主観的には)利益のないことはしない。これがすべての社会問題を考えるときの前提である。

 では、子どもたちの学力が低下することから誰が利益を得ているのか?

 まず子どもたち自身である。これは考えれば誰でもわかる。子どもたちは「同学齢集団」の中で競争する。輪切りにされた同学齢100万人ほどの中でどこの順位にいるか、ということだけが重要であって、その順位自体は「絶対学力」とは関係ない。偏差値というのはそういうものである。

 受験は同学齢集団内の競争であるから、絶対学力の低下は現象としては顕在化しない。そして、同学齢集団内だけの競争においては、必ず集団全体の学力は低下する。メンバー数有限の集団における競争では「自分の学力を上げる」ことと「他人の学力を下げる」ことは結果的には同じことだからである。*1「自分のパフォーマンスを上げる」ことと「他人のパフォーマンスを下げる」ことでは、どちらが多くの努力を要するか?これも考えるまでもない。自分が勉強するより、競争相手の勉強を邪魔する方がはるかに簡単である。だから、閉じられた集団で競争させれば、全員が「他人のパフォーマンスを低下させること」に努力を優先的に向けるようになる。授業中に立ち歩くのも、教師に食ってかかるのも、学校の備品を壊すのも、同級生をいじめるのも、子どもたちにとっては結果的にはその時間粛々と勉強しているのと同じ(それ以上の)効果をラットレースでの「勝ち残り」という点ではもたらす。

 だから、問題行動をする子どもたちを「不合理な行動」をしているとみなすのはおそらく間違っている。彼らはむしろ合理性に「取り憑かれている」のである。

 受験生を持つ親は、受験シーズンに「インフルエンザ流行」というニュースを見ると、自分の子供の健康を祈願すると同時に、自分の子供以外の受験生全員がインフルエンザに罹患して高熱を発して試験会場にたどり着けないことを(無意識のうちに)祈願する。

 受験シーズンにソニーと任天堂は新しいゲーム機を発売することがある。「クリスマスシーズンですから」とメーカーは説明するし、そう言ってる本人も自分の言葉を信じているのであろうが、携帯ゲームをこの時期に発売することは受験生の勉強への集中力を上げる方向には1ミリも貢献しないことはメーカーの営業は熟知しているはずである。それでもあえてこの時期を選ぶのは、「(自分自身、あるいは自分の子ども以外の)子どもたちの学力をできるだけ低下させることから私は損失よりもむしろ利益を得るだろう」という見通しについての消費者たちの社会的合意が存在するからである。

 試みに年末年始のテレビをつけてみるとよい。その中に「日本の子どもたちの学力が低下しているそうですから、どうです、ここは一つ、受験シーズンに子どもたちが勉強に集中できるように歌舞音曲は自制しては」というような「常識的判断」の痕跡を発見することは絶望的に困難である。ゴミのようなバラエティを垂れ流す暇に、『三日間基礎英文法丸かじり』とか『映像で見る世界史48時間集中講義』とか『寝ながら学べるドラマ源氏物語』とか、そういうものを放映した方が、テレビの報道番組でキャスターが額に皺を寄せて「この国の学力低下はどうにかならないのでしょうか?」とぼそぼそつぶやいているよりいくらかは効果があるのではないかと私は思うが、私に同意してくれる人間はテレビ業界にはたぶん一人もいない。

 別にそれが「悪い」といっているのではない。人間は「そういうものだ」ということを申し上げているのである。

 大学生の学力低下の原因は、「日本の子どもたちの学力が低下することからは(少なくとも私は)利益が得られる」と考えている日本人が社会の相当数を占めているということにある。市場もメディアも親たちもそして子どもたち自身も、日本人の学力が下がることから自分だけは利益をかすめ取ることができると信じている。

 その暗黙の合意に基づいて、お互い「他人の学力を低下させること」に努めてきた、その結果、日本は「こんな世の中」になってしまったのである。誰が悪いわけでもない。*2

 メディアだって人のことは言えないはずである。私が新聞に寄稿する記事はしばしば「こんなむずかしい言葉を使ってもらっては困ります」と突き返される。

 先日は某新聞から「リベラルアーツ」が「読者には理解できないから、説明を入れてください」と言われた。「エビデンス・ベースト」も一蹴された。

 「では、おたくの新聞は読者の中で一番リテラシーの低い人間を基準に紙面を構成されているわけですね?」と私は訊ねた。「なら、いっそ全部ひらがなにしちゃったらどうです?」。記者はしばらく絶句していた。

 読者に向かって「わからない言葉があったら辞書を引きたまえ」ときっぱり言い切ることのできる新聞はいま存在しない。おそらくメディアの側は「これはリーダー・フレンドリーということです」と言い訳するだろう。

 そうだろうか。そのようなリーダー・フレンドリーネスを追い求めたあげく、現代日本の新聞は半世紀前の新聞と読み比べても、使用できる語彙が激減してしまった。「語彙」を「語い」と書き換え、「範疇」を「範ちゅう」と書き換えることが子どもたちの学力の向上にどのような貢献を果たしたのか、メディア関係者からのご説明があれば、お聞きしたい。

 というわけで、はなはだ失礼とは思うが、さきほどの文章の中の「大学」を「新聞」に置き換えてそのまま毎日新聞の論説委員にお返ししたいと思う。

 「こんな時代になったのは、少子化が進んだためだけではないのだ。新聞の『質の低下』という積年の、本質的な問題がある。(中略)経済成長や基準緩和の中で増え続けた新聞は、今、適当な紙数へのスリム化が課題なのではなく、真にメディアの機関として機能しているか、内実を問われているのだ。この根本的な論議を避け、問題を先送りにし、新聞の数を減らすだけなら、新聞そのものが無用とされる時代を招来しかねない」

 彼の大学論はそのまま新聞論としても読むことができる。どんな論件にも妥当する推論形式は「普遍的真理」を語っているとみなすべきか、それとも「具体的なことは何も語っていない」とみなすべきか。そのご判断はみなさんにお任せしよう。

 繰り返し言うように、別に私は誰かに学力低下の責めをおしつける気はない。子どもたちの学力低下について「誰の責任だ」と凄んでみせる資格のある人間は日本には一人もいない。私たちはこの点については全員同罪である。それゆえ、まず自分自身がそれと知らずにどのように「子どもたちの学力低下」に荷担しているのか、その自己点検から始めるほかないだろうと思う。

 「根本的な議論」はそこからしか始まらない。

 (06年11月22日)

 

 

*1:市立中学でヤンキー系の人々が授業妨害をする利得ってことですね。あるいは、高校受験により、偏差値で既にランク分けされた後の、映像化などされている(それはネタのはずなのだが)、「現在の高校の授業風景」で、「皆が思い思いのことをしていて、一切先生の話を聴かない」という背景はこれだろうと推察されるわけです。互いの学習権侵害が自己の利得になっている。

*2:誰もが悪いとも言えるが。