雑記:読書メモが見つかった
部屋のクリップボードというか、コルクボードの無駄な紙を処分していたら、ありがちなことだが何層にも重なった雑多なメモの中から、ニーチェのキリスト教批判で自分にとって新鮮だったもののメモが出てきた。
読後当時の言葉遣いであって、自分の今の理解に比して、「読みたて」の言葉という点でデジャヴとともに違和感も共存していて、興味深かった。
メモも黄ばんでボロくなっていたので捨てようと思うが、それもちょっと勿体ない。それで、ここに記録しておくことにした。本当に、なんということはないメモだ…。ニーチェを多角的に理解している人から見れば、「何だそんなことか」かもしれない。
僕にとっては、世界一の信仰を集めている宗教が、ニーチェにより畜群道徳と呼ばれ、断罪され、「神は死んだ」とまで言わしめたのに、今でも機能している厳然たる事実の腑分けは一大事なのだ(一番大事ではないが)。
というのは、世界の趨勢は彼らのロジックで決まっているのだから。
とはいえ、あくまでも、「国際政治や外交の上で、国益や公益を考える際に、キリスト教のありようというのは重要だから学ぶ必要がある」というほどのもので、「かの宗教が邪教だから駆逐せよ」とか、わざわざ対立を煽るようなことが言いたいわけではない。
そこは誤解のないように読んでもらいたいです。
(メモ)
ニーチェによれば、キリスト教の本質であるところの禁欲主義的理想主義は、近代科学や哲学に駆逐されたのではない。キリスト教的マインドのうち、世界観や信仰というパートが、贅肉だとして削ぎ落とされたことにより、露わになったのであり、信仰という制御装置を失ったからこそ、キリスト教の自己否定性、謙抑性は暴走し、本質の帰結としてのニヒリズムが表に出てきた。
つまり、もともと内包されていたものがシェイブアウトされてきただけであり、キリスト教の抑圧性こそが、人間の可能性の最大の敵ということになる。
決して、信仰の頽廃(退廃)がニヒリズムの素(基)であるとか、ニヒリズムがキリスト教の対極にあるわけではない。それ自体なのだ。