From Nowhere To Somewhere ?

ビートルズの曲名から名を採った無定見、無我、無帰属の男が、どこかに辿りつけるのかという疑問文(題名、字面通り)

興味深い書籍の紹介

拡大決定版(あとがきによると、2011年3月に拡大し終えたことになる)だそうです。61個のエッセイが詰まっています。

 

近所のBOOKOFFで書いました(ちゃんと定価払えよ)。

 

エッセイというと、和製の表現では随筆、史上名高い『徒然草』のように、徒然なるままに、日暮し机に向かいて、論理構成も章立てや編成も無視して書いたはずなのに、滋味に溢れ読む価値があるものというのが語源、語義のはずです。

 

そういう見地からいうと、ビジネス雑誌向けに書いたこのエッセイは、実はエッセイというけれどもエッセイ風の提言や箴言、警句なのであって、アフォリズムとかにもわたるものなのかもしれません。本の画像を挟んで下に続きます。

無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)

無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)

よっこらしょっと。そういうわけで、僕の文章ではよくあることなのですが、61個のうちから、気に入ったエッセイをいくつか紹介させていただきます。

 

気に入ったら(または、気分を損ねたらでもいいですが)、手に取って読んでみてほしいなと思います。まず1つ目。

 

 無趣味のすすめ

 まわりを見ると、趣味が花盛りだ。手芸、山歩き、ガーデニング、パソコン、料理、スポーツ、ペットの飼育や訓練など、ありとあらゆる趣味の情報が愛好者向けに、また初心者向けに紹介される。趣味が悪いわけではない。だが基本的に趣味は老人のものだ。好きで好きでたまらない何かに没頭する子供や若者は、いずれ自然にプロを目指すだろう。

 老人はいい意味でも悪い意味でも既得権益を持っている。獲得してきた知識や技術、それに資産や人的ネットワークなどで、彼らは自然にそれらを守ろうとする。だから自分の世界を意図的に、また無謀に拡大して不慣れな環境や他者と遭遇することを避ける傾向がある。

 わたしは趣味を持っていない。小説はもちろん、映画製作も、キューバ音楽のプロデュースも、メールマガジンの編集発行も、金銭のやりとりや契約や批判が発生する「仕事」だ。息抜きとしては、犬と散歩したり、スポーツジムで泳いだり、海外のリゾートのプールサイドで読書をしたりスパで疲れをとったりするが、とても趣味とはいえない。

 現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属す共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて完全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。

 つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。*1

 2つ目。

 アベノミクスの4本目の矢が急遽発生し、毛利元就の家訓への敬意から生まれた言い回しじゃなかったんだなと少しがっかりしたところですが。オリンピックで建設業は沸いているようです。良きことかな(詠嘆であり疑問ではない)。公共事業の単なる復活は、ケインジアン復活であって、社会保障費をも大きくしないと似非の「大きな政府」になる気がします。コンクリートから人へ、そしてまた人からコンクリートへ。

 労働者と消費者

 以前、元ヤマト運輸社長の故小倉昌男氏と会ってお話を伺ったことがある。1970年代に日本で初めて個人用の宅配サービスを開始した伝説の経営者だ。小倉氏は、個人荷物の宅配サービスなど高コストで成功するわけがないという常識に挑戦し、運輸業の許認可を独占する官僚たちと戦いながら、宅配便というビジネスを根付かせることに成功した。クロネコヤマトの宅急便は巨大な需要を生み出しましたね、とわたしは質問したのだが、小倉氏は首を振って、違いますと答えた。需要を生み出すのはお客さまで、わたしはそのお手伝いをしただけです、というのが氏の考えだった。宅急便の成功は、規制と寡占に代表される官主導の大企業中心のビジネスから顧客・消費者が主役となるビジネスへの転換期の、良い部分を象徴している。

 80年代から90年代にかけて、レーガンサッチャーの政策をモデルにした「国家から市場へ」という大きな流れが起こった。規制緩和が進み「小さな政府」が謳われて、独禁法大店法が改正され、流通や商品管理システムなどに革命的な変化が始まった。コンビニを筆頭に、小売や外食産業の全国チェーン展開が始まり、巨大な規模の量販店が次々に生まれ、既存のスーパーや百貨店は戦略の変化を迫られ、地方の旧来の商店街はシャッター通りと呼ばれ、疲弊が加速した。

 わたしたちは、労働者という立場と、消費者という立場を合わせ持っているが「小さな政府」の時代、つまり「顧客第一」の時代には、どうしても消費者という立場が強くなる。そういった時代には商品の値段は下がり、賃金は上がらない。労働者の雇用環境よりも消費者の好みが優先される。そうしなければモノやサービスは売れないし、株主の支持も得られない。高利益率を維持しながら従業員にも手厚い対応をしているという会社は稀である。

 わたしたちは大きなジレンマを抱えてしまった。消費者の立場では「王様」と呼ばれるが、労働者の立場では、一部のスペシャリストを除いて、消耗品となりつつあり、働きがいは失われつつあって、肝心の消費も縮小している。「大きな政府」に戻ろうにも逼迫した財政状況がそれを許さない。非常に厄介な循環が始まっていて、今のところ解決策は見当たらない。*2とりあえず、自分は労働者としての生きがいを感じているのか、それとも消費者としての生きがいしかないのか、一度考えてみてはどうだろうか。

 ライフスタイルの再考*3を迫られる展開なのだけど、現状、僕は唸るしかない状況ですね。うん。この文章を読んでくれたあなたはいかがでしょうか…。

 

現在、2つ抜粋して紹介したのですけど、他にも興味深いのがあったら追加するかもしれません。今のところは、ここまでで打ち止めにしておきます。以上です。

 

追記:もう少し読み進めて2つさらに興味深いエッセイがあったので足します。

3つ目。

 引用抜粋の前の前口上なのですが、下記のように村上氏は日本の外交力について冷ややかです。多くの論者や評者が述べるように…。そこでつい、「TPPによる関税撤廃は自由貿易圏完成だ」という議論に眉に唾つけて距離を置いてしまう持論の論拠に加えたくなりました。こういう見方もあるよと。

 これまでの国際経済史において、GATTの枠組みとか、FTAによる二国間の調整とか、これまでにも、いわゆる自由貿易圏を構築する試みはあったじゃないかという懐疑心は、次のような問いに支えられています。すなわち、「関税撤廃=関税自主権消滅を意味するが、(小村寿太郎外相が日本史の授業で活躍するように)不平等条約を撤廃して取り戻した、独立主権国家にとって国内経済を護るための伝家の宝刀のはずですよね?」という問いです。

 不当な保護主義に加担するつもりはありませんが、一挙全廃(経過措置はあるってクッションをかますんだろうけどさ…いくつ貿易品目があると思います?それを全部ですよ)って暴挙ではないでしょうか?

 僕よりもウワテの(自虐)観念論者が黒幕なんじゃないかと訝しく思ってしまうよ。

日本の外交 

 有史以来、日本はあまり外交を必要としてこなかった。中国などとの交易はあったし、倭寇と呼ばれる国際的な海賊は存在したが、元寇を除くと、江戸末期の黒船の来航まで、歴代の政府は外国との交渉に労力を払う必要がなく、内政に努めればよかった。豊臣秀吉朝鮮出兵など数少ない例外を除いて*4、日本は他国を侵略・占領することもなく、また侵略・占領されることもなかった。

 そのことは国力を充実・洗練させ、近代化を容易にした。流通や金融・商品市場などの経済システムが整い、茶道や歌舞伎や浮世絵といった絢爛たる文化が花開いた。だが、長い間必要としなかったために、外交を「特別」なことと考えるという副作用を生み、それが現代に至るまで続いているのではないかと思う。

 わたしたち日本人は、外交という言葉から海の向こう側に存在する国々との交渉をイメージする。だが、他のほとんどの国では、外国は陸続きに存在する。歩き続けると、いつか国の外に出てしまうし、国境付近では戦争やその後の併合によって所属国家が変わったりする。また、内部にいくつもの外国を抱えている中国のような国家もある。

 陸続きだと、侵略が容易になる。フランクフルトからウィーンを経由してブダペストまで車で旅したことがあるが、そのときナチスドイツの機甲化部隊の電撃作戦がなぜ可能だったかを実感した。侵略は悪だし、侵略される側は最悪の悲劇を味わうが、同時に強者相手の交渉能力を獲得できる場合もある。歴史的に侵略のリスクに晒されてきた国は、守るべきものは何か、どうすればそれを守れるのかを必死になって考えなければならないし、そういった過程でしか獲得できない交渉能力というものもある。残念ながらと言うべきか、幸福なことにと言うべきか、日本はそういった交渉能力が弱い。

 拉致問題と核に関わる北朝鮮とのうんざりするような交渉において、小泉政権以来、「対話と圧力」という言葉が使われるようになった。「アメとムチ」をもっとむずかしく表現したつもりなのだろうが、本来は、対話も圧力も最初から「外交」に含まれる。対話と圧力という2つの言葉を使わざるをえないところに、日本外国の幼さが象徴されているように思える。

 4つ目。

 アベノミクスで、景気が上向いているような話が新聞の上を躍ったりします。残念ながら僕にはその実感をじかに体感できる立ち位置がないので、いわゆるトリクルダウン理論で、おこぼれにあやかるしかないのかもしれませんね。これから借用する文章は、輸出産業が不調だった時に書かれたものですが、同政策に依拠している現状、(主に)輸入産業が代入されるべきことなのかもしれません。苦境に陥った産業が替わっただけだという指摘がネットには溢れていますので…。

 いや、別に、この二項対立に単純に落としこむことができるという話では脱線してしまうので誤解しないでください…。

 アベノミクス、(オリンピックなる第四の矢を出す前に)第三の矢がちゃんと7年後まで効くのかな…という素朴な疑問と共振したということなんです。

顧客満足という呪文 

 不況・デフレでモノが売れないと連日メディアは報道し、「顧客満足」というスローガンを呪文のように唱えて多くのメーカーや小売が安売り競争に走り、そういった状況について著名な経済学者が、ユニクロが栄えて国が滅ぶ、というような論考を発表したりする。だが、モノが売れないのは本当に不況やデフレのせいなのだろうか。当たり前のことだが、ユニクロやABCマートやニトリといったごく少数の勝利者たちは、不況やデフレを持ちだしてエクスキューズしたりしない。*5

 モノが売れないと言われて久しいが、いつと比べているのだろう。ひょっとしたら、高度成長やその後のバブルまでの時代と比べているのではないだろうか。今は、異常な時代なのだろうか。わたしは、バブル以後の長く続く不況を「異常」と捉えると、その時点でビジネスは破綻すると思う。今の中国を考えるとわかりやすいが、相応の人口、つまり大きな国内市場を持つ国が急激な経済発展を進める過程にあるのは、巨大な需要だ。

 高度成長期の日本にも、今の中国と同じように、巨大な消費市場と需要があった。自動車や電気製品を誰もが欲しがっていた。造れば造るだけ売れるという時代だ。ある程度の経済力があるが飢えているという大勢の人々がいるところで食料品店を開業するようなものだ。商売は絶対に失敗しない。そんな時代は、歴史的に数百年単位でその国に訪れ、だいたい四半世紀ほど続く。だから、実は、そんな時代のほうが異常なのだ。

 今、メーカーでも小売りでも、成功している企業は、高度成長時のビジネスモデルのほうが異常であることを自覚している。製品やサービスが売れないのは、不況やデフレのせいではなく、需要が少ないからだというはっきりとした認識を持っている。需要が少ない中で商売をするには、できるだけ良質のものをできるだけ良いサービスでできるだけ安い値段で売るしかない。

 顧客満足を図るためには、徹底的に消費者の側に立つ必要がある。だがこれほどむずかしいことはない。生活財がだいたいそろってしまった成熟社会では、消費者の側が、何が欲しいのかわかっていないこともある。いろいろな意味で、淘汰が起こっていると考えるのが正しいのだと思う。淘汰の時代には、成功より、まず生き残ることを優先すべきである。*6

 追記2:5つ目。

 宙に浮いた年金とか、名寄問題その他、発覚した組織的問題もありましたが。

 それ以前に、そもそも、失われた10年、あるいは20年の間に、民間企業は経済の変動に合わせて経営態様を替えたりしてきましたが、年金の制度設計や運営方法自体が、一向に変わらない(とされる)のはなぜかという違和感はあります。

 右肩上がりだった時代の人口増や経済システムに依拠しているのに、当初の官僚たちが考えた設計以降、大きな改変がないこと自体が虚妄の産物、という熾烈な批判が一部識者からも提示されてきました。ネットでもちょっと検索ワードを工夫すれば、たくさん批判記事がヒットします。

 が、どうしても主流は守旧派だし、兎にも角にも積み立てておけという議論になっていく。僕の両親も、僕を諭しますね、よく…。

 超高齢社会を生きる

 「超高齢社会をどう生きるか」という問いは、あたかも真摯で重要なものに映るが、実は詐欺のようなものだ。どう生きるかという問いは、必ず「精神論」として語られる。まるで国民全員が経済的に恵まれ悠々自適な人生を送るという大前提があるかのようだ。現状では、定年後に、2:6:2の割合で、悠々自適層:中間層:困窮層に分かれるらしい。2割が定年と同時に生活困窮に陥るという事実だけでもショッキングだが、6割の中間層にしても、長生きすればするほど資産が目減りして生活が困窮していく。

 つまり高齢者あるいはその予備軍に対しては、「どう生きるか」ではなく「どうやって生き延びるか」というミもフタもない問いを設定しなくてはならない。定年を迎えた中高年は、預貯金、退職金、年金、他に不動産、株式などの証券が資産となる。住宅は持ち家か賃貸か、子供が自立しているかどうか、健康に不安はないかなどで、各自生き延びられる条件が違う。

 シニア雑誌やテレビなどが扱う「定年後の生き方」は、そのほとんどが全体の2割の「悠々自適層」が対象となっている。シニアマーケットは、その層しか相手にしていない。困窮層は購買力がないので最初から問題にされていない。「超高齢社会をどう生きるか」という問いそのものが、悠々自適層だけを対象にしているのだ。

 中間層や困窮層は、定年後も何とか職を見つけて働くしか生き延びる方法はない。しかし現在、雇用状況は、定年後の中高年にとって絶望的だ。サラリーマンの時代は終わり各自が自営業者・スペシャリストとしての技能と知識とモチベーションを必要とされているのに、ほとんどの中高年はサラリーマンとしての調整能力しか持っていない。

 ひどい時代がすでに到来しつつある。だがマスメディアはそのことを報道しないし、政治も問題にしない。そんな報道をしても誰も喜ばないし、政治がイシューとして取り上げたらパンドラの箱が開くことになる。わたしは、何人かのタクシーの運転手から、「仕事をやめたらホームレスになるしかないみたいです」という悲痛な叫びを聞いた。非常に多くの中高年が、深刻な不安を抱えて生きている。うつ病などの精神疾患や自殺の急増がそのことを象徴しているのだが、誰もが気づかないふりをしている。これほどアンフェアなことはない。

 

*1:掲載されているのが、ワーカホリック礼讃気味の『GOETHE』というビジネス雑誌だということをお忘れなきよう…(汗) しかし、ゲーテほどの才人は西洋史上もなかなか居ない気がするけどな…。ゲーテは多才で、全てがプロ級だったことから敷衍して、「趣味を作るなら、全てで飯を食えるレベルにしろ」という意味なら、雑誌の趣旨にも沿うかもしれません。かえって死を早める気がしますが…。

*2:アベノミクスの成否は経済評論家、経済学者、歴史学者らに任せますが、このとき、第二次安倍政権はまだ成立していなかったことは公平のため付言します。

*3:大きく視野をとると、自分のライフスタイルを外から固定してくるという意味で、政治家の選び方や企業のありようなどもだけど…。

*4:「など」とボカしているが、今の中国や韓国が知れば怒り出すかもしれない伏せ方かな…。微妙なのは、この二国を除いて、アジアで日本をバッシングするところがあまりないとされることでしょうか?台湾の議員団がインフラ整備等日本統治期を覚えているからか、例えば靖国神社に手を合わせに来てくれたり、インドは独立闘争を支えてくれたということで親日だとされたり…。サヨクの人たちが(左翼ではなく。軸がなく、お金儲けなどのために真性の左翼の議論を拝借している人たち、というほどの意味です)戦後に広めた誤謬が、ネットによる情報収集で希釈、修正されつつあるのかな。ともかくこの原稿の時、村上龍氏は「など」で伏せることにしたわけですね。問題が起きても面倒臭いんだろうな。ここでからんでもしょうがないか。

*5:また下手な擁護になりますが、時系列的には、「ユニクロはブラック企業ではないか?」という報道がされるに至る前の原稿だと思われます。

*6:テレビや半導体の海外における「敗戦」とされるのはこのへんに当てはまるんだろうか?