From Nowhere To Somewhere ?

ビートルズの曲名から名を採った無定見、無我、無帰属の男が、どこかに辿りつけるのかという疑問文(題名、字面通り)

久々に更新を思い立ちました

でも、僕が好きな観念論哲学についての誤解を解くための、書籍からの引用に過ぎないんですけど。

「一般教養」と称して、観念論の内実について、誤謬が広まっていくと、実は大変なことになる。現状でもそうなのに、実学ばっかり教えるようになったら誤解が加速する。

ちなみに、時事に関連付けると(?)、大学の自治を無視した、実学系のみ偏重の大学改革もとい改悪は、9条を改変しない形での違憲です。なんつって。

大学から教養の要素を取り上げてしまったら、大学の存在意義が本当に無くなってしまうと思いますよ。実学だけだったら、各種の専門学校生らに勝てないのは自明なんだから。「実学しかない」という目先の利益を追う人たちに、大局から理念を与えられるからこそ、エリート面できていたんですから、(少なくとも昔の帝大生などごく少数の)大学生は。また、それが学歴社会の根拠・拠り所でしょ(今は大学生が飽和して、空洞化しているけど)。

 先に引用元書籍を明示。↓

よみがえれ、哲学 (NHKブックス)

よみがえれ、哲学 (NHKブックス)

 

 以下、引用。強調部分は、僕が勝手に強調しました。

 

   いまもう一度近代哲学の「観念論」のモチーフを見直してみましょう。そもそも近代哲学の仮想敵となっていたのはキリスト教の神学ですね。当時、教権と王権の政治権力が結びついていましたから、スコラ哲学が圧倒的な強い力をもっていて、新しい思想に対してきわめて弾圧的だった。近代哲学はキリスト教の世界観を全部点検して新しい考え方を立てなくてはならなかった。観念論の方法の本質は、ひとことで言えば、神が存在するとか、王に聖なる権利が与えられているとか、そういう任意の物語的前提をすべて捨てて、誰もが納得できるような人間と社会との基本関係をつくり上げようとする方法だったということです。なぜ観念論から始めるかと言うと、たとえば当時は、唯心論と唯物論、理神論と無神論、道徳先験主義と心情主義、政治的には王統派と共和派という具合に、いろんな考えがせめぎ合っていた。もちろんまだ宗教対立もある。それぞれが自分の「正しさ」を主張し合っていて、その対立を克服できない状態が続いていた。そこで、近代哲学は、各人がなぜそういう多様な世界信念をもつのかその理由を検証することから始めようとした。人間の世界確信というのは観念のなかでつくり上げられるわけですから、観念のなかで信念が構成される一般理論を考える、これが観念論の方法の根本だったのです。

 ですから、近代哲学の「観念論」の方法の本質は、いわゆる主観主義とか神学的な体系を擁護するためのもの、といった点にはありません。八割は誤解です。世界観について、信念の対立が必然的なものとなってきたため、この信念の対立を克服する原理は、どんな人間も納得できるような道をとって、共通理解をつくり出していくという仕方以外にはない。そのためには「観念論」という方法しかない。これはいまでもまったく妥当な考えですね。